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牛肉             『台湾西洋文明事始め』(原題:台灣西方文明初體驗)より

 1920年、宜蘭の若者たちが留学のため、日本人教師に引率されて日本へ渡った。
 日本で食べる最初の夜ご飯。泊まった旅館の女中が熱々の鍋を運んできた。おいしそう、と皆が箸をつけようとしたその時、19歳の楊くんが叫んだ。「みんな食べちゃ駄目だ! これは牛肉だ!」
 仲間のうち13歳の少年は、鍋から立ちのぼる香りに我慢できず、汁を飲もうとお碗とおたまを手にとったが、すかさず周りの少年たちに止められた。「牛肉は食べちゃ駄目だ!」「牛を食べたら、ばかになるぞ!」と口々に言われ、彼は「汁だけだよ」と口答えした。すると“包囲網”は血相を変えて言った。「汁も駄目だ! バチがあたるぞ!」
 この13歳の少年は、陳逸松〔ちんいっしょう〕という。1907年生まれで、戦前・日本統治時代は、台湾議会設置請願運動に参加したのち弁護士となり、台北市会の議員にもなった。戦後は、国民党政府の考試院[人事院]委員を任じたがのちに出国。1973年には中国共産党の招きで全人大(全国人民代表大会)の常任委員に就任した。1 彼の少年時代の思い出話から、台湾人の牛肉に対する考え方の変遷がよくわかる。かつて台湾人は牛肉を食べなかった。習慣がなかっただけでなく、それを食べることは大きなタブーであった。

 タブーの多くは、恐れによってできている。台湾の古い言い伝えによれば、牛肉を食べるとたくさんの「恐怖」が待っていた。たとえば、自分から望んで牛肉を食べたものはばかになる、とかである。(略)牛肉を食べなければ、生まれつき運がなかった人でも福がつくし、実際に刀で牛を殺めるなりわいのものは、死後地獄に落ち、閻魔〔えんま〕様に命令で蛇の餌となる――そう信じられていたのだ。
 「牛・犬を食わば、地獄行き」ということわざまであって、つまり牛や犬の肉を食べるにはそれ相応の根性がいったわけだが、それにはちゃんと歴史的な由来が存在する。
 台湾のオランダ統治時代[1624―1661年]より以前、先住民族たちは水田を持たず、鍬もなく、サトウキビから砂糖を作る技術も持たなかった。東アジアにやってきたオランダ人はサトウキビの経済価値に目をつけ、中国大陸でたくさんの貧民を集めて台湾へ送り込み、サトウキビ畑を開墾させた。台湾にはもともと牛はおらず、オランダ人は「植民地であるインドネシア・ジャワからわざわざ200頭の牛を運び込んで農耕牛とし、サトウキビ畑を耕した。これが台湾の牛の起源である」。(台湾史研究者・林衡道〔りんこうどう〕の指摘。)2
 オランダ統治時代の記録史料である『バタヴィア城日誌[巴達維亞城日記]』の1640年12月6日の記載には、澎湖〔ほうこ〕諸島からオス牛・メス牛を1,200頭あまり持ち込んだ、とある。またオランダ人以外にも、牧師たちが先住民族に牛を売ったケースもあった。オランダ東インド会社は牛を飼い、中国大陸からの移民に貸し与えた。ただし農耕牛がその使役中に死ねば、農民は弁償しなければならず、一方で、子牛ができたら報奨金がもらえた。1650年の資料によればその額は、前者が20レアル、後者が6レアルであった。3
 清の時代の地理志『臺陽見聞録』唐贊袞〔とうさんこん〕に引用された、陳小崖〔ちんしょうがい〕の「外紀」によれば、オランダ人はかつて南北の行政地区にそれぞれ「牛頭司〔ぎゅうとうし〕」を置き、牛の繁殖と飼育にあたらせた――「オスは手なづけたあと去勢し、土を耕かせた。メスは山に放ち、子を産ませた」。

 それから200〜300年の間、台湾人にとって、牛は最も大切な農耕の道具であった。林衡道によれば、かつて清の時代には牛を殺したり、牛を食べたりすることに対する禁令があった。時代が日本統治時代に下ってもなお、牛を殺すと罰が当たるという言い伝えが民間に流布していた。台北・大龍峒〔だいりゅうどう〕の淡水河岸には屠畜場があり、その周辺に住む人々は子どもたちにこう教えた——「もし近くを通りかかったとき牛の叫び声が聞こえたなら、すぐに目をつぶって両手を背にやり、縛られているという仕草をしなさい」——つまり、助けないのでなく、助けたかったけど助けられなかった、とあの世で閻魔様に申し開きするために、であった。

(略)
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 (明治の文明開化以前、日本人も牛肉を食べなかったが、)台湾統治が始まった1895年の日本は、すでに牛肉を食べる習慣が広がっていた。だから日本統治2年目の台湾には、早くも牛肉を売る「一心舎」の広告が現れた。1898年の台北には、鶏と牛の鍋を売り物とする料理屋「筑紫館」があり、1899年、台北・西門街[いまの衡陽路あたり]にあった「安片牛肉店」の広告は「正真正銘の神戸牛」を謳っていた。同じ年、神戸牛とアモイ牛を輸入する台北・府前街[いまの重慶南路あたり]の「松尾商店」が新聞に広告を掲載した。「松尾商店」は台北に5つの支店があり、市中だけで9つの特約店があった。さらに西洋料理店のメニューには当然牛肉ステーキがあったわけで、日本統治が台湾にもたらした食生活の変化は、決して小さなものではなかった。

 南投出身で作家・劇作家の張深切〔ちょうしんせつ〕(1904年生まれ)4は、回想録『里程碑[里程標]』に、牛肉を食べるようになるまでどんな“苦労”があったかを記している。
 彼は14歳で留学のため日本へ渡った。門司に到着すると、鹿港出身の詩人・施家本〔しかほん〕が西洋料理を奢ってくれた。食事中、張は、自分が口に入れたジャーマン・ステーキが牛肉だと気づき、「驚きに血の気が引き、とたん罪悪感に苛まれた。死んだらきっと地獄に落ちて、牛に復讐される。そう思った」。施は、彼に説いた――孔子だって牛を食べたんだ。孔子へのお供え物に牛があって、豚がないのはその証拠だ。牛を食べるなと禁じる言い伝えは、農耕牛が全部食べられてしまうのを恐れてのことだ。でも、世界中を探しても、牛を食わない国はない。だからって、牛が食いつくされることもない。養殖して食べるのだから、農耕する牛がゼロになることはない……。長年の迷信を解いてくれたこの話を、張は生涯忘れなかったという。
 こうやって一人一人が教育され、実際にその肉の味に慣れていくことによって、牛肉が食卓に上ることへの罪悪感は少しずつ消えていったのだ。

 物の本によると、1878年ころ、牛鍋を食べるという西洋の習慣はすでに日本の隅々にまで行き渡り、牛を食わぬ者は人にあらず、といった風潮であった。一方、台湾の人々は、そんなコロっと変われなかった。戦後も依然として、牛肉を食べてはいけないというタブーが存在していた。たとえば雲林・嘉南平原の小さな土地持ちの家に生まれた私の母は現在66歳だから、6年間日本人だったことになるが、そんな彼女も牛肉を食べる習慣がなかった。だから私もずっと牛肉の味を知らずに育ち、牛肉を初めて食べたのは二十歳になった、1984年のことであった。(了)

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 天野健太郎
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  1. その後1983年よりアメリカに移住し、99年没。90年の口述で、92年『自立晩報』に連載された『陳逸松回憶錄』(前衛出版)がある。 []
  2. 台湾でよく見られる農耕牛は黄牛〔おうぎゅう〕と水牛があり、前者が茶褐色であるに対し、後者は灰褐色で、角が後ろに大きく反っているのが特徴。行政院[内閣]農業委員会の資料によると、ジャワから運んだのが水牛で、澎湖から運んだのは黄牛とされる。日本統治時代の台湾で、黄牛も水牛も農耕牛として広く普及しており、台湾農村の原風景として、よく絵葉書や絵画、彫刻の題材になった。『バタヴィア城日誌1-3 東洋文庫170』村上直次郎訳注(平凡社)、『臺陽見聞錄』唐贊袞(國史館台灣文獻館) []
  3. もとはスペインの銀貨で、当時オランダでも使われた。1レアルは日本の銀8匁〔もんめ〕だったという。ちなみに同時期、中国から台湾への移民に課せられた人頭税は月4分の1レアルであった。 []
  4. 張深切は1917年、林献堂に伴われ日本へ留学。青山学院中等部卒業後、23年より中国に渡り、抗日運動に身を投じた。27年台湾で逮捕されたあとは、演劇を通じた社会運動に転換し、台湾演劇研究会を組織。34年台湾文芸連盟を結成(のちに分裂・消滅)。二二八事件後は政治の世界から離れ、台湾語映画『邱罔舍』の脚本・監督として57年金馬奨を受賞。65年台中で死去。著作に『豚』(遠景出版)『里程碑 上下卷』(文經社)など。 []