台湾少女は日本に憧れ、夢をかなえた   文=天野健太郎
 
 

 誰にでも、ふとしたときに、わけもわからないまま、何かに惹かれてしまうことがあるらしい。

 最近読んだ台湾の本で、洋裁にまつわる話があった。
『母親的六十年洋裁歳月(母とミシンの60年――洋裁がかなえた台湾少女の夢)』鄭鴻生著。

 著者の母は洋裁の先生として戦後40年以上に渡り台湾女性に生きる術を教え、彼女たちの自立を後押しした。戦後の経済復興は女性の労働機会の拡大をもたらし、更に社会に出た台湾女性たちは洋服を必要とした。既製品を買うという習慣(あるいは経済的余裕)がまだなかった当時、洋服を自分で作る洋裁ブームが起きていた。そして同時に仕立て屋の内職や洋裁師、あるいはアパレルメーカーに就職するなど、洋裁の技術は女性が自活するための武器にもなった。

 彼女は、どうして洋裁の道を選んだのだろう?

 彼女が育ったのは戦前の台湾--つまり日本の植民地であった。台湾南部の古都、台南の貧しい家に生まれた彼女は、小学校を出てすぐ親が営む雑貨屋で仕事を始めた。1930年代後半、女性が高等教育を受けることは難しく、ましてや当時台湾人の就学機会は(日本人と比べ)制限があった。妹たちの世話と店番をしながら毎日は過ぎていく。商売は決してうまくいっているわけでなく、このままじゃいけない、何か手に職をつけなければ、という焦りで悶々としていた。

 でも仕事は忙しい。手が空いたら空いたで商品を包む紙袋を作らなければならない。古紙屋から仕入れた古新聞、古雑誌を適当な大きさに切り、折りたたみ、糊(のり)付けする。彼女は知らず知らず手を止め、古雑誌に見入ってしまうことがあった。材料となった古紙には、当時台湾在住の日本人主婦が購読していた『主婦の友』や『装苑』などが紛れ込んでいた。そこには、当時最先端の洋装と、それを作るための製図が載っていた。彼女はそれに、魅せられた。

 ずっと丸い立襟で結びボタンの伝統的台湾シャツを着ていた彼女だが、見よう見まねで洋服を作り始めた。自分のものだけでなく、家族の洋服も試行錯誤しながら作っていく。何年か経つと、彼女の技術は洋装店の社長の目に留まるほど習熟していた。つまり面接用のスーツを自作できるほどに。

 古風な父をなんとか説得しおおせ、19歳になった彼女は日本人が台南で経営する洋装店で働き始めた。忙しかったが、彼女と同僚たちは最新モードを吸収し、いわば台南のファッションリーダーであった。当時の写真にはワンピースなどの洋装に混じって、“敵国”の最先端ファッションであるチャイナドレス(「旗袍(チーパオ)」)を着たものも残されていた。和服は高価で買えなかったが、それでも写真館で借りて、記念写真を撮った。

 実地でしごかれ、難しい注文をもこなせるようになり、自信をつけた彼女は更に上を目指し、東京で服飾デザインを学ぶことに決めた……。

 こうして、ふとしたきっかけで心に芽生えた憧れは、彼女に洋裁の技術を習得させただけでなく、自分の人生は自分の力で切り開いていいのだと、教えた。

 台湾人を抑圧していた宗主国日本は、皮肉にも台湾人たちにモダンな流行や新しい知識を教え、それまで持つことのなかった夢を与えていた。政治と経済の収奪は、同時に文化的な先進性をその被抑圧者に見せつけ、不満と同時に憧れという感情を植え付ける。文化の非対称性という皮肉な図式を無きことにはできない。しかし、その一方的に押し寄せる文化の奔流を持ちこたえたあとに残るものは、与えられたものより強固ではなかったか。

 帰郷した彼女は、当時としては少し遅い結婚をする。1944年。すでに戦争が日常生活のすみずみにまで入り込んでいたあのころ、モンペと国民服で婚礼を挙げるのが常識だったあのころ、彼女は自分で製図を引き、自分で布を調達し、自分で縫製をしたウェディングドレスを堂々身につけ、式を挙げた。

 そこには彼女の人生を支えた、洋装への憧れと、自分を貫く意志があったのである。

 

※本文は『な~るほどザ台湾』2012年10月号掲載を加筆・修正したものです。

天野健太郎(あまの けんたろう)
1971年、愛知県生まれ三河人。京都府立大学文学部国中文専攻卒業。2000年より国立台湾師範大学国語中心、国立北京語言大学人文学院へ留学。帰国後は中国語翻訳、会議通訳者。聞文堂LLC代表(ツイッターアカウント「 @taiwan_about 」)。台湾書籍を日本語で紹介するサイト「もっと台湾(http://www.motto-taiwan.com )」主宰。訳書に『台湾海峡一九四九』龍應台著(白水社)、『交換日記』張妙如、徐玫怡著(東洋出版)、『猫楽園』猫夫人著(イースト・プレス)。『日本統治時代の台湾(仮)』陳柔縉著(PHP研究所)、6月刊行予定。俳人。