3「独立のころ」 もっと上を目指したい――日本留学
『母とミシンの六十年』(原題:母親的六十年洋裁歳月)

select#11PH日吉屋時代の写真

(1939年、21歳の母は、3年間、洋裁の技術を叩きこまれた台南・日吉屋洋装店を退職した。自分の力で食べていくことに決め、親戚から足踏みミシンを借り、自宅で洋裁師と洋裁教室の仕事を始めた。そして1940年の春、家長であった祖父が風邪をこじらせて急死する。)

 母が洋裁を仕事にしてから4年余りの月日が経ったころ、祖父が亡くなった。
 洋裁師として自活はできていたものの、家族の生活費のためにもっと働く必要があった。同年代の親類の女たちは皆嫁に行ったが、母の見立てでは、自分の学歴と今ある技術だけでは食べていくのが精いっぱいで、結婚など夢のまた夢であった。かわいがってくれた父を亡くした彼女は深く悲しんだが、それは同時に、自由の獲得を意味した。将来のため、洋裁の技術をもっと向上させたい。でも今のレベルでは、洋裁雑誌に載る製図通りに作ることしかできず、アレンジするにせよ、袖口や襟に飾りをつけるくらいが関の山。自分のアイデアから新しく洋服をデザインするなど到底無理な話であった。もっとも、そのころ台南にいた洋裁師たちは皆、製図をそのまま裁断・縫製するだけであったし、まして服飾デザインを教える者など一人もいなかった。その弱点を補うべく、母は、日本へ留学し、服飾デザインを学ぶことを思い立った。

 母はもともと、せっかちなほうだし、若いころはなかなか度胸があったようだ。服飾デザインを学ぶため日本へ行くと決めたと思ったら、あっという間にお金を工面し、祖父を亡くした年の12月にはもう日本行きの船に乗っていた。当時、台湾から日本へ渡る際に特別な手続きは不要で、船の切符を買えばそれで行けた。ただ、日本でどの服飾学校に通うかなどは事前に手配することができなかったから、新学期がいつ始まるかだけを把握した上で、あとは出たとこ勝負であった。
 母の記憶によれば、切符は総督府専売局で仕事をしていたいとこに手配してもらった。値段は32円[1945年台湾の小学校女性教員の月給は50円(陳柔縉調べ)]。台南駅から基隆駅までの乗車券、基隆港から日本の門司港までの乗船券、それに門司駅から東京駅までの乗車券がひとつづりになっていた。日本へ向かった母の荷物は、冬服が2着と夏服用の生地だけ(うち冬服1着は身につけていった)。加えて、出発前の何か月かで貯めた200円を日本円に換えて生活費とした。母によれば、当時台湾で使われていたお金は日本円と1対1の同レートであったが、その紙幣は日本で流通せず、日本円と兌換〔だかん〕する必要があったらしい。
 大都会・東京に身寄りは無かったが、幸い小学校時代の親友と連絡がつき、駅まで迎えに来てくれることになった。親友は台南高等女学校を卒業したあと東京に出て、薬剤師になるため専門学校に通っていた。電車を下りた母は、手紙で指示された通りプラットフォームで一歩も動かず立っていた。約束通り、親友の明珠〔めいじゅ〕はすぐ迎えに現れた。
(略)
 明珠に案内され、母は東京の複雑な路面電車を乗り継ぎ、どうにか新宿区四谷の下宿にたどり着いた。4畳半の部屋は一角を間仕切って台所代わりにしていたため、なお狭く見えた。壁際に明珠の勉強机があり、真ん中に置かれた四角いちゃぶ台は、端に片付けなければ床が敷けなかった。同郷の若い二人はこの小さな部屋で寝食を共にした。食事は節約のため自炊。家賃と食費、雑費は折半で、まさに清貧の留学生活を送ることとなった。

 翌日から明珠と母は学校探しに出かけた。条件は服飾デザインの課程があることと、彼女の学歴で入学できること。日吉屋洋装店の仕事で日本人と接した経験と婦人雑誌から吸収した語彙のおかげで、母の日本語は大変流暢〔りゅうちょう〕になっていた。いくつか問い合わせた学校のうち、彼女が気に入ったのは、渋谷区にあり、ちょうど生徒募集中の「東京洋裁技芸学院」であった。
 当時東京で最も有名な服飾学校は「文化服装学院」であった。この学校は有名なファッション雑誌『装苑』を出していた。しかし学費が高い上に、高等女学校を卒業してないと入れなかった。母が見つけた東京洋裁技芸学院は学費が比較的安かっただけでなく、実務経験があれば、小学校卒業の学歴で入学することができた。洋裁の基本技術はもちろんのこと、母の腕前はすでに免状レベルといってよく、学校も午前と午後のコースを同時に通うことを許した。つまり半年で1年分の課程を履修でき、その分生活費が節約できるというわけだ。おまけに、彼女が通った「裁断科」という服飾デザインのクラスは、自分の頭に浮かんだアイデアをどう型紙に描くか、あるいはすでにあるデザインにどうアレンジを加えていくかを学ぶクラスであった。したがって、実際に洋服を作る必要がなく、材料費の心配もせずに済む。もっとも下宿にミシンなどなかったのだが。

 新学期が始まってからは毎日、弁当を持って朝一番に家を出、1時間以上かけて学校に通った。母の記憶によれば、下宿から四谷の停留所までまず徒歩で20分、乗り換えを含め都電に20分以上揺られ、渋谷駅からさらに20分近く歩いてようやく学校にたどり着いた。東京のラッシュはすさまじい人混みで、また人の歩く速度も想像を超えていた。万事のんびりした台南で生まれ育った母は、いつも人にはじき飛ばされそうになりながら通学した。(略)母は毎日、朝早く出かけ、夜遅く帰ってきた。夜は下宿のちゃぶ台で「宿題」をした。それでも週末ともなれば、明珠と一緒に東京の街をぶらぶら歩き回った。大きな百貨店のショーウインドーには、ただただ目を奪われた。そういえば、と母が言う——もう散り際だったけど、お花見にも行った。明珠と一緒に見たあの光景は今でも脳裏にくっきり焼き付いている……。

 卒業まであと少しとなった初夏のころ、母は台南から持ってきた夏服用の生地を取り出し、自分の製図で裁断したあと、日本人同級生の家でミシンを借り、夏を迎えるためのワンピースを縫い上げた。それからなお忙しく、充実した学生生活を送り、東京洋裁技芸学院の授業は予定通り半年で修了することができた。母が振り返ってこう言う——東京で学んだデザインパターンとその手法、コツは、それから生涯にわたってアイデアの源となり、自分を助けてくれた。
 同級生には台湾人がもう一人いた。日本人の同級生たちもまたそのほとんどが地方出身者だった。彼女たちも母と同じように、早く技術を習得するために午前と午後のコースを同時履修していた。裁断科の卒業写真を見ると、日本の学生のほとんどが和服で着飾っている。母はもちろん台湾から着ていったスーツである。母が仲良しの同級生たちと校舎外の階段で撮った別の記念写真では、皆、洋装でポーズをとっていた。

 母は、学業を終えたあとも東京に残って、働くつもりだったという。女性の帽子の作り方を習得したかったからである。洋装のモードを語る上で、東京は紛れもなくそれをリードする“帝国の中心”であり、多くの若者が地方からやってきて、自分を磨いた。しかし母の計画は実現しなかった。(略)家族は、卒業したらすぐ帰れと言い、母もそれに背くことはできなかった。旅費はもう使い切っていたので、やむを得ず台湾から来ていた友人からお金を借り、家賃と雑費を精算して帰りの切符を買った。母は作ったばかりの夏のワンピースを身につけ、明珠に別れを告げ、台南へ帰った。
 そのころ、日本はすでに戦争ムードが高まっており、母の帰郷から半年も経たない1941年12月、帝国海軍は真珠湾を奇襲し、太平洋戦争が始まった。こうして日本は戦時体制に突入し、仮に日本に残っていたとしても、母が洋裁の勉強を続けることはできなかっただろう。(了)

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○本書の日本語版は、来年刊行予定です。タイトルや訳文は刊行時に変更される予定です。

写真提供 鄭鴻生
 天野健太郎
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