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3 東京で探す台湾史—早稲田の喫茶店と台湾民主運動の関係
『日本統治時代の台湾とその人びと』(原題:人人身上都是一個時代)

(日本統治時代、数多くの台湾人が旅行や留学のため東京を訪れた。私はその足跡をたどるため、東京中を歩き回った。)

 5月の東京行の最終日。飛行機が午後の便だったので、余った午前中をどうしようか考えた――そうだ、早稲田大学に行こう!
(略)
 50年に及んだ日本統治時代、総督府の差別と圧政に対し多くの抵抗の動きがあった。林献堂〔りんけんどう〕1を中心とした台湾議会設置請願運動2は、そのうち最も“派手”な動きであり、帝国議会に対して14年、15回に渡る請願が海を越えて行われた――いわばこれは“直訴”である(略)。無論、いにしえのように泣き叫ぶことはなく、粛々として、今日の民主社会でよく知られるところの「請願」を行ったわけだが、それでも台湾総督府のメンツは十分つぶされた。総督府にとって、この運動はまさに目の上のたんこぶ、喉に刺さった骨であった。
 台湾議会設置請願運動に関する一次資料としてまず名前が挙がるのは、『台湾民族運動史』(葉栄鐘〔ようえいしょう〕ほか著)であろう。著者は当時、実際に東京でこの運動に参加した人である[葉は林献堂の秘書兼通訳]。本書には、「早稲田大学前牧舎珈琲店」が2度登場する。たった2度ではあるが、この運動に関わる歴史上の人物たちが14年間さまざまな場所を訪れる中、喫茶店はここしか登場しない。ほかは教会か団体事務所、ないし雑誌社であった。
(略)

(私は、早稲田大学の正門辺りをぐるぐる歩き回り、ようやく目的地の喫茶店「高田牧舎」を見つけ、4代目店主・藤田さんからお話を伺った。)

 台湾議会設置請願運動が高田牧舎に残した足跡をたどってみよう。初登場は1924年1月5日である。留学生による政治結社「新民会」のメンバー16人がここで会議を開き、1か月前より総督府が全台湾で展開した議会運動活動家60名余りに対する大規模検挙[「治警事件」]に臆さず、今後も請願活動を続けることを決めている。同時に、記者や議員に働きかけ、世論や民意を通じ公権力への圧力を醸成していく新たな方針を採択した。
 それから半年後、高田牧舎の名が再び現れる。台湾からやってきた請願委員のため、留学生たちがここで歓迎会を開いたのだ。その後、政治家、議員、新聞記者たちと連携し、具体的行動が進められていく。

 東京の台湾人留学生組織が集会場所として選んだ高田牧舎は、彼らが活動基盤としていた神田からいささか距離がある。ではなぜここで会合を開いたのか。理由はとんとわからないが、台湾議会設置請願運動と早稲田の学友たちの間に密接な関係があったことは事実である。
 たとえば、終始この運動を指導した衆議院議員・田川大吉郎は早稲田大学出身である[卒業当時は「東京専門学校」]。彼は計6回の請願で紹介議員を務めた。つまり、台湾人の請願書は彼なくば議会に送られなかったのであり、砕けた言い方をすれば、この人は“台湾の味方”だったのだ。(略)
 田川大吉郎は自由主義者であり、長きに渡って日本での普通選挙実施を訴えてきた。従ってこのベテラン運動家は当初より台湾人運動家を励まし、かつ茨〔いばら〕の道を進む覚悟を教えた――「1度の負けで諦めるくらいなら、やらないほうがましだ。不屈の志を持って、10年、20年と継続する考えがあるならやりなさい」
 もしこうした早稲田OBがいなければ、もし彼らの支援や助言・激励がなければ、議会設置請願運動が15回も回数を重ねることは難しかったのではないか。最終的に実〔み〕は結ばなかったものの、14年、15回続けた粘り強さを、後進の私たちは大きな誇りにしたい。

 ミルクを飲み終えて帰り支度をしていると、学生らしき男の子が二人入ってきた。藤田さんが「元気?」と大きな声であいさつし、二人とおしゃべりを始めた。どうやら常連さんらしい。もしかすると、初代のご主人もこんな気さくに、台湾人留学生とあいさつを交わしていたのではなかろうか。かつて台湾の歴史に書きこまれた高田牧舎で、今またこの「元気?」から、どんな新しいエピソードが生まれ、どんな新しい歴史が始まるのだろう?(了)

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○本書の日本語版、『日本統治時代の台湾』の本節部分訳は、日本での翻訳出版権を保有するPHP研究所さんのご好意により掲載しています。タイトルや訳文は刊行時に変更になる可能性があります。

 天野健太郎
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  1. 1881―1956 実業家、政治活動家。台中生まれ。台湾五大名家の一つ、台中・霧峰林家当主。1907年初の日本旅行で梁啓超〔りょうけいちょう〕と出会い、政治運動における生涯の指針を得る。13年板垣退助を識り、翌年台湾人への差別待遇撤廃を目指した台湾同化会設立。20年東京の留学生たちと総督府の独裁統治打破を目指し新民会設立、翌年より民選地方議会設置を求める台湾議会設置請願運動を推し進めた(34年まで)。21年の台湾文化協会設立に参加するなど、抗日民主運動のリーダーとして漸進的な社会改革を掲げ、広範に支持者を広げたが、その後は自らの民主(台湾)派と社会主義派、民族主義(祖国)派との間で分裂を繰り返す。27年文化協会分裂後、世界一周旅行へ。台湾民衆党を結党するも、蒋渭水〔しょういすい〕と袂〔たもと〕を分かち、30年台湾地方自治連盟を結成した。49年病気治療を理由に日本へ逃れ、東京・久我山に没した。 []
  2. 1921年より34年まで14年、15回に渡って帝国議会への請願という形で続けられた政治運動。台湾人への圧政と差別の根源は、総督府が軍事指揮権と共に行政・司法・立法の三権すべてを掌握して台湾を支配していることにあり、立法権の根拠となる「六三法(台湾に施行すべき法令に関する法律)」の撤廃が、台湾人民主活動家たちの大きな目標となった。その後「六三法」撤廃はむしろ内地との同化を肯定することになるとして、台湾の特殊性を鑑み、特別法や予算審議などの部分的な自治を求め、民選による「台湾議会」設置を要求する方針に転換。この目標は台湾民衆から幅広い支持を得た。総督府はこれに対し強い圧力をかけた。帝国議会では15回すべて「不採決」などの結果で、台湾議会の設置はならず、「六三法」は名前を変えながら終戦まで存続した。 []