中国語の「達人」はその道のプロ。
今回ご案内いただくのは中文コラムニストの新井一二三さんです。
1曲の歌詞に始まった興味が、
のちに1冊の本になるまでの物語を全7回でお届けいただきます。
さて、その大いなる興味をかき立てたのは?

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カラスミ物語(1)——グレープ「朝刊」

文=新井一二三

さだまさし、といっても、21世紀の若者にとってはたぶん「テレビに出てくる面白いおじさん」くらいのイメージしかないのでしょうが、昔々、1973年にフォーク・デュオのグレープとして、「雪の朝」でデビューした頃の彼は、ちょっとぐっとくるほど、格好よかったものなのです。現在165センチだという身長も、前歯が目立つその顔立ちも、ほとんど同じだったに違いないけれど、髪型はパンチパーマではなく長目のさらさらヘアーで、銀縁メガネをかけたようすがなんともインテリっぽく、そして何よりヴァイオリンを抱えて歌い、間奏になると弓を引くその姿が、ギターにベースとドラムという当時のフォークグループの定番とは一線を画していました。誰かが「インテリフォーク」といっていましたが、まさにその通り。さらにいうと、彼は長崎の出身で、お父上は大陸帰り。楽曲の歌詞の中にエキゾチックなイメージがあふれていたことも魅力的でした。

2枚目のシングル「精霊流し」でグレープは有名になり、同時にこの長崎特有のお祭りも全国の人々の知るところになりました。とはいえ、歌詞の内容は、恋人を亡くした女性が初盆に彼を悼むというもので、全体的にしめやかな印象。実はこれが台湾の港町・基隆の、日本でいえばお盆にあたる中元普渡そのままに、爆竹が響き渡り、花火が空を染める派手なお祭りだということは、こちら東京あたりの女子中学生にはまったく想像もできませんでした。

今になって振り返れば、長崎の持つエキゾチシズムには、出島のオランダ人がもたらした「バタくささ」(これもすでに死語でしょうけれど)以外に、唐人屋敷の中国人がもたらした「中華風味」もだいぶ混ざっていたはずです。何しろ、唐人屋敷の居住者だけで2,000人、江戸時代はじめには、長崎の全人口6万人のうち、1万人が中国人だったというのですから。そして、長崎に来た唐人の中に、距離的に近い浙江省、江蘇省の出身者以外に、多くの福建人もいたのは、今も残る中国寺院の名前、興福寺、崇福寺などからも想像がつく通りです。また、彼らが直接大陸からだけではなく、台湾や南洋からも渡来していたことも、唐船の種類に、浙江省、江蘇省からの「口船」、福建や広東などからの「中奥船」、ベトナムやタイなどからの「奥舟」があり、それぞれ異なる品目の貿易にあたっていたという話からもわかります。

というわけで、グレープ2枚目のシングル曲「精霊流し」が全国的にヒットした理由の一つに、そのエキゾチシズムがあったことは間違いないといえるでしょう。その後、3枚目の「追伸」、4枚目の「ほおずき」はどちらも2匹目のどじょうを狙う意図が透けて見えるような失恋をテーマとした暗めの作品でしたが、5枚目の「朝刊」(1975年)はうってかわって、新婚早々の夫が妻をからかう内容。のちにソロになって150万枚を売った大ヒット曲「関白宣言」(1979年)につながる作品で、さらにいえばさだまさしのお茶目な一面を世に知らしめる転機にもなりました。そして、この「朝刊」に出てきた「カラスミ」の一言が、当時東京の中学2年生だった私の人生を大きく変えることになったとは、よもやさだまさし氏ご本人もご存じないことでしょう。

(続きます!)

column#3PH新井一二三(あらいひふみ)
東京生まれ。中文コラムニスト、明治大学教授。台湾『聯合報』『中国時報』『自由時報』、中国『南方都市報』などにコラムを連載。中国語著作に[我這一代東京人][獨立,從一個人旅行開始][東京迷上車][台灣為何教我哭?][歡迎來到東京食堂](大田出版、台北)など、日本語著作に『中国語はおもしろい』(講談社現代新書)、『中国、香港、台湾映画のなかの日本』(明治大学リバティブックス)など。