中国語の「達人」はその道のプロ。
ご案内いただくのは中文コラムニストの新井一二三さんです。
1曲の歌詞に始まった興味が、
のちに1冊の本になるまでの物語を全7回でお届けいただきます。
物語第2回は、さらに広がったカラスミへの興味。
想像をかき立てたのはいったい……?

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カラスミ物語(2)——邱永漢『食は広州に在り』

文=新井一二三

グレープ 5枚目のシングル「朝刊」(1975年)で、語り手の夫は新婚早々の妻にこう語りかけます。

「前におやじが来た時も、僕の好物のカラスミを、手土産にとくれたのに、わざわざまた煮て駄目にして、ごめんなさいっていいながら、いちばん笑いこけたのは君。まったく君のドジだけは日本一、おいこりゃお前の母親以上だぞって、親父が目を細めささやいた、だからさ、けがだけは気をつけてくれ」

歌詞中の「カラスミ」がなんらかの食べ物だということはわかっても、当時中学生だった私には、それ以上の知識がありません。父に聞いても、母に尋ねても首をふるばかり。1975年の東京に、そのような食べ物は存在しなかったといっていいでしょう。今日であれば、小学生だってわからないことはネットで調べます。しかし、当時の世界に、インターネットはありませんでした。それどころか、物流も現在のように発達していませんでしたから、各地の名産は現地からの手土産でもらう以外、手に入ることも口に入ることもなかったのです。確か同じ頃、チューリップで活動していた財津和夫が、故郷福岡の名物「辛子明太子」についてよく語っていて、それすら東京の子どもは食べたことがなかったのですから、まったく今振り返ると、隔世の感がありますね。

さて、次に私が「カラスミ」に出合ったのは、浪人中の1980年、邱永漢著『食は広州に在り』を読んだときでした。この本は1957年刊行で、75年初版の中公文庫が現在まで版を重ねているベスト&ロングセラーです。中国の俗諺〔ぞくげん〕からとったタイトルが、まるで広州の話を書いたかのような印象を与えますが、実は作者は日本統治下の台湾に生まれて、東大経済学部を卒業。台湾人の父と日本人の母を持ち、旧都台南で幼少期を送った人物です。その子ども時代を振り返り、父上についてこう書いています。

「(父は)美食の点では人口十万余の町では右に出る者がなかったのではないかと思う。たとえばカラスミ(烏魚子)のごときは、台湾では北風に追われたボラの大群が台湾海峡を南下する季節、すなわち暮の12月から1、2月にかけてとれるものであるが、父は1年分くらい仕入れておき、電気冷蔵庫などという便利なもののない時代には、一はらずつ丁寧にパラフィン紙に包み、空缶に入れて魚市場の冷蔵庫に預けておいた。それを一缶ずつ出してきて食べるので、中秋の名月をながめながら一杯やるときもカラスミのなかった年はない。その焼き方についてもうるさいことを言い、たいていは自分で焼いた。炭火をカンカンにおこした上で、パリパリと音がたつほど焼くのであるが、まずその前に、カラスミの薄皮をとることと、熱度の高い火であることがコツで、表面はきれいに焼けて香ばしくなりながら、中は熱くなった程度でなければならない。それを一分ぐらいの厚さに切ってなまにんにくの白いところを薄く刻んだものとつけ会わせて食べるのである」

ああ、おいしそう。食べたい。だけど、どうやって?

(続きます!)

column#3PH新井一二三(あらいひふみ)
東京生まれ。中文コラムニスト、明治大学教授。台湾『聯合報』『中国時報』『自由時報』、中国『南方都市報』などにコラムを連載。中国語著作に[我這一代東京人][獨立,從一個人旅行開始][東京迷上車][台灣為何教我哭?][歡迎來到東京食堂](大田出版、台北)など、日本語著作に『中国語はおもしろい』(講談社現代新書)、『中国、香港、台湾映画のなかの日本』(明治大学リバティブックス)など。