中国語の「達人」はその道のプロ。
ご案内いただくのは中文コラムニストの新井一二三さんです。
1曲の歌詞に始まった興味が、
のちに1冊の本になるまでの物語を全7回でお届けいただきます。
第3回、筆者はその後海外へ。
邱永漢氏の書籍をお供に連れた理由はあの監督のエッセイにありました。

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カラスミ物語(3)——伊丹十三『ヨーロッパ退屈日記』

文=新井一二三

私は大学時代に2年間中国に留学し、その後ひょんなことから、カナダと香港で合わせて10年を過ごしました。その間、本棚にはいつも邱永漢著『食は広州に在り』がありました。なぜかというと、伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』だったか『女たちよ!』だったかに、海外に長く行く時には、いつも日本語で書かれた食べ物エッセイを持っていく、というエピソードが書かれていたからです。インターネットもアマゾンもない時代には、日本から本を持って出ないと、海外で日本語を読むことはできなかったのです。

伊丹十三はのちに映画監督として名を馳せますが、最初は俳優、次にエッセイスト兼イラストレーターとして世に出ました。『ヨーロッパ退屈日記』は1965年に刊行されて以来、今日まで新潮文庫版が書店に並び続けています。1968年刊行の『女たちよ!』も同じ。いずれも『食は広州に在り』に負けず劣らずのベスト&ロングセラーというわけで、大したものです。

さて、当時の伊丹氏は、俳優は俳優でも国際的俳優。そもそもなぜ日本人の海外渡航が完全に自由化される前の1960年代はじめに、彼がヨーロッパで退屈していたのかというと、1900年の義和団事件、中国語でいうところの「八国連軍」による北京制圧にいたる過程を描くハリウッド映画『北京55日』(ニコラス・レイ監督)に日本軍人柴五郎役で出演するためでした。ちなみに主演はチャールトン・ヘストン。この北京を舞台とするアメリカ映画のセットが、なぜかスペインのマドリッドに作られていて、撮影の待ち時間に退屈した伊丹氏はサントリーのPR誌『洋酒天国』にエッセイを寄せるようになり、当時編集部にいたのちの直木賞作家山口瞳氏の尽力によって本の出版に至ったそうです。それにしても、豪勢な退屈ぶりで、何しろ暇があると、後年のノーベル賞作家大江健三郎と一緒にイヨネスコの芝居を見に行ったり、「友人の白洲夫妻」がパリから運んで来てくれた「ジャギュア」を乗り回したりしています。この友人夫妻って、もちろん吉田茂元首相の側近として知られた白洲次郎、正子夫妻でしょうね。次郎が東北電力会長を退き、正子が『能面』で読売文学賞を受賞する前の時期にあたるようです。本当に豪勢!

というわけで、伊丹十三というとヨーロッパ通のイメージが強いのですが、ハリウッド映画で東洋人役を演じたことで、1960年代の世界における東洋と西洋の力関係について、独特の観察をしています。たとえば、『北京55日』のあと彼は、『ロード・ジム』という作品に出演したのですが、英国植民地香港で初めて会った主役のピーター・オトゥールは、長らくイングランドの圧政に苦しんだアイルランドの出身でした。当時香港の最高級ホテルだったペニンシュラには、夜の12時を過ぎると中国人は一歩も中に入ることが許されないという決まりがあり、アイルランド人であるオトゥールはそのことに深く傷ついて伊丹に言うのです。

「いいかい、ここにいる英国人どもは、本国へ帰ったら便所の清掃人夫にさえなれないんだぞ。そういう連中なんだぞ。わかるか」

(続きます!)

column#3PH新井一二三(あらいひふみ)
東京生まれ。中文コラムニスト、明治大学教授。台湾『聯合報』『中国時報』『自由時報』、中国『南方都市報』などにコラムを連載。中国語著作に[我這一代東京人][獨立,從一個人旅行開始][東京迷上車][台灣為何教我哭?][歡迎來到東京食堂](大田出版、台北)など、日本語著作に『中国語はおもしろい』(講談社現代新書)、『中国、香港、台湾映画のなかの日本』(明治大学リバティブックス)など。