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歴史をひも解く際に注意深くあらねばならぬであろうことの一つに、
ほどこうとしている歴史が、どんな部分の事柄に、どんな立場の人が、
どういうスポットライトを当てようとしているのか——があります。
眼差しのありようが変われば歴史はいとも簡単に変わるもの。
では、台湾史にかかわる書籍はどんな眼差しをもって描かれているのでしょうか。
多様な台湾の、多面的な奥深さを、じっくり味わってみませんか。
今月は台湾研究にまつわるブックガイド、後編です。

#1概説書を読んでみる(1)→
#2概説書を読んでみる(2)→
#3 台湾近代美術の葛藤(1)→
#4 台湾近代美術の葛藤(2)→
#5 台湾研究に情熱をかけた人々(1)→

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台湾研究に情熱をかけた人々(2)

文=黒羽夏彦

1928年に台北帝国大学(戦後は台湾大学)が開学すると、アカデミックかつ組織的な台湾研究が本格的に進められるようになる。文政学部に設置された土俗人種学講座は主任教授の移川子之蔵〔うつしかわ ねのぞう〕、助手の宮本延人〔みやもと のぶと〕、この講座を卒業した唯一の学生・馬淵東一〔まぶち とういち〕という3人だけのちっぽけな研究室だったが、日本で最初の文化人類学の専門課程であった点では先駆的な性格を持っていた。1930年には言語学講座が設置され、小川尚義〔おがわ なおよし〕と浅井惠倫〔あさい えりん〕が台湾原住民言語の研究を行う。周辺分野でも歴史学の岩生成一〔いわお せいいち〕、社会学の岡田謙〔おかだ ゆずる〕、法学の増田福太郎、農業経済学の奥田彧〔おくだ いく〕、形質人類学の金関丈夫〔かなせき たけお〕、地質学の早坂一郎、昆虫学の素木得一〔しらき とくいち〕といった名前が見える。

第11代台湾総督・上山満之進〔かみやま みつのしん〕が寄贈した研究費によって土俗人種学講座と言語学講座は体系的な調査研究を進め、その成果は『台湾高砂族系統所属の研究』『原語による台湾高砂族伝説集』としてそれぞれまとめられた。現在に至る研究の基礎はここに確立されている。また、土俗人種学講座は学術雑誌『南方土俗』を刊行し、関連分野の研究成果が次々と発表された。文化人類学的調査の具体的な展開については日本順益台湾原住民研究会・編『台湾原住民研究への招待』(風響社、1998年)が参考になるし、宮本延人『台湾の原住民族:回想・私の民族学調査』(六興出版、1985年)、宮本延人・瀬川孝吉・馬淵東一『台湾の民族と文化』(六興出版、1987年)からは当時の雰囲気がヴィヴィッドにうかがえて興味深い。

1941年、『民俗台湾』という雑誌が刊行された。台北帝国大学の土俗人種学講座や言語学講座の研究対象が原住民族であったとすれば、こちらは主に漢族系社会の民俗調査を中心としている。雑誌の発刊に奔走したのは台湾育ちの池田敏雄。台北の台湾人コミュニティーに溶け込んだ根っからの「台湾オタク」である。日本の植民地統治も半世紀近くを経てくると、台湾生まれ、もしくは台湾育ちという理由から、台湾に対して自らの故郷として愛着を覚える世代も現れてきた。『民俗台湾』編集同人でも池田のほか、画家の立石鐵臣〔たていし てつおみ〕や考古学者の国分直一〔こくぶ なおいち〕などがそうした背景を持っている。また、日本人ばかりでなく楊雲萍〔よう うんぴょう〕や黄得時〔こうとくじ〕(二人とも戦後は台湾大学教授)などの台湾人も編集同人として参加、一般読者からの積極的な投稿も募っていた。日本人=調査者/台湾人=被調査者という対峙的な構図に陥ってしまわないよう、台湾人自らによって民俗文化の記録を促す意図があったと言える。

『民俗台湾』に集った人々の著作としては金関丈夫・国分直一『台湾考古誌』(法政大学出版局、1979年)、国分直一『壺を祀る村:台湾民俗誌』(法政大学出版局、1981年)などがあり、いま読んでも色あせない魅力を持っている。1

太平洋戦争の勃発も目前に迫ったこの時期、台湾人の日本人化、いわゆる「皇民化運動」が大々的に推進されていた。戦時体制一色となるにつれて、台湾伝統の習俗が消滅してしまいかねない──そうした危機感が『民俗台湾』を発刊する動機となっていた。当然ながら「皇民化運動」に対しては批判的で、編集実務を取り仕切った池田の身辺には特高がうろついていたらしい。

川村湊『「大東亜民俗学」の虚実』(講談社選書メチエ、1996年)は、戦時下における民俗学・民族学・人類学の諸相を大きな視野の中で捉えようとした労作である。ただし、『民俗台湾』は柳田国男が構想した(と川村が言う)「植民地民俗学」の一環に過ぎないと断罪しているのは的外れの感がぬぐえない。

ポストコロニアルのアプローチが盛んになると、支配者/被支配者、中央/周縁といった枠組みを前提とした学知的構造そのものがはらむ知的暴力性が問題とされ、当時においては一見「良心的」な振る舞いに見えたとしても、こうした学知的構造に彼らも取り込まれていた以上、その責任は逃れがたいという見解が主流となってきた。たとえば、『民俗台湾』の植民地性として、『民俗台湾』創刊趣意書(金関丈夫の執筆)にあった「台湾旧慣の湮滅〔いんめつ〕を惜しむのではない」という文言をとらえて楊雲萍が「冷たい」と非難するという一悶着があったことが取り上げられている。だが、「皇民化運動」という時代状況下、総督府から睨まれないよう筆を曲げねばならない事情があった点は考慮する必要があろう。戦後になって、楊雲萍自身が「今にして思えば、当時の荒れ狂う時勢の中で、先生がたの苦心を、若かった僕は、冷静に受け取れなかった所があったと思う。」「『民俗台湾』の創刊は、日本人の真の勇気と良心のあらわれであった」2と記しているのだが、こうした発言が無視されているのは議論の構成に恣意〔しい〕性が疑われる。

客観性を標榜する学問的営為そのものの中に無意識のうちに紛れ込んでいる偏見を暴き出し、その自覚を促した点でポストコロニアルの議論が貢献した成果は大きい。ただし、それが一つの理論として確立され、事情を問わずに一律に適用され始めると、今度は断罪という結論が初めにありきで、当時を生きた人々の生身の葛藤が看過されかねない。そうしたスタンスの研究や論評にもまた欠席裁判の傲慢さ、冷たさが感じられてしまう。3

1945年、日本の敗戦、台湾の中華民国への帰属という体制転換にあたって、台北帝国大学や『民俗台湾』の人的ネットワークはこれまで蓄積してきた台湾研究の成果を引き継ぐ上で大きな役割を果たす。『民俗台湾』編集同人たちも、たとえば金関丈夫は新制台湾大学医学院教授、国分直一は同文学院副教授となり、池田敏雄は台湾省編訳館台湾研究組に所属するといった形で留用され、引き続き台北で暮らすことになった(「留用」とは特別な技術を持った人々が国民党の要請によってしばらく現地に留まったことを指す)。気心の知れた楊雲萍が台湾研究組の責任者となり、編訳館の館長には日本留学経験のある知日派で魯迅の親友だったリベラリスト・許寿裳〔きょ じゅしょう〕が就任した。4また、安陽(殷墟)の発掘に携わった著名な考古学者・李済〔りさい〕は移川子之蔵とハーバード大学の同門で、台湾大学の標本室を訪れた際に「これがハーバードの先輩、プロフェッサー移川のミュージアムか」と感慨深げにつぶやくのを国分は傍らで聞いていた。5

台湾人、留用された日本人、来台した中国の知識人、こうした人々が民族的垣根を越えて交流するシーンが戦後間もなく、ほんのひと時とはいえ出現したというのが実に興味深い。

(次回は来月掲載の予定です)

OLYMPUS DIGITAL CAMERA黒羽夏彦(くろはなつひこ)
台湾専門ブログ「ふぉるもさん・ぷろむなあど」、書評ブログ「ものろぎや・そりてえる」を運営。1974年生まれ。出版社勤務を経て、2014年3月より台南の国立成功大学文学院華語中心へ留学。東アジアの近現代に交錯したさまざまな人物群像に関心を持ち、台湾に視点を置いて見つめ直したいと考えている。

  1. 雑誌『民俗台湾』に関わった人々については陳艶紅『『民俗台湾』と日本人』(致良出版社、2006年)が詳しい。台湾で刊行された本だが、日本語で書かれている。 []
  2. 『えとのす』第21号、1983年7月。 []
  3. こうした問題については、三尾裕子「『民俗台湾』と大東亜共栄圏」(貴志俊彦・荒野泰典・小風秀雅編『「東アジア」の時代性』[渓水社、2005年]所収)、同「植民地下の「グレーゾーン」における「異質化の語り」の可能性──『民俗台湾』を例に」(『アジア・アフリカ言語文化研究』第71号[2006年3月])を参照のこと。 []
  4. 来台当時の許寿裳については黄英哲『台湾文化再構築1945~1947の光と影:魯迅思想受容の行方』(創土社、1999年)を参照。 []
  5. 李済(国分直一訳)『安陽発掘』(新日本教育図書、1982年)の訳者解説を参照。 []