台湾で書店に行くと、驚くほど日本の翻訳本が出ていることに気づく。
台湾でカフェに行くと、必ず書棚があることに気づく。
出版文化、なんて言い方があるけれど、文化は場所によって違うもの。
——でも、どんなふうに?
台湾で、台湾人による、出版文化について訊いて回った。
どんなふうに本と付き合ってるのか、について。
台湾の漫画家を日本に売り出す、敏腕プロデューサーに訊いた。           取材・文=田中美帆

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台湾オリジナルを育てる (2)—王士豪さん(友善之地文創開發有限公司・總經理)

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元々はスポーツ少年だった。ある時、友達に見せられた漫画で人生が変わる。初めて見たシーンがどんなだったか、いまでも鮮やかに思い出せる。「確か小学校5年生くらいだったと思います。その時まで知っている漫画といえば、ドラえもんくらいで、特別に漫画に興味を持っていたわけではありませんでした。ただ、その漫画を初めて読んだ時は違いました。長髪でカッコいい男子が、こぶし一発でビルの1階をふっ飛ばすシーンでした。そんなこと、できるわけないじゃん!ってツッコミたくなりました(笑)」。その人生を変えた作品こそ、1980年代後半から90年代、日本でも爆発的人気を誇った『聖闘士星矢』だ。その後、アニメ版もレンタルで全部観た。完全にハマった、んである。

高校時代、王さんの部屋にはコミックとゲームがあった。「教科書を学校から持って帰るのがキライで、部屋には置いてませんでした」。教科書の代わり?に積まれたコミックはなんと4,000冊。その頃には日本語はある程度話せるようになっていて、高校の日本語サークルでは部長も務めた。部活の顧問だった先生にその日本語力を認められ、日本語学科への進学を勧められたが、将来を考えて別の道を選択した。受験当日、マークシート方式の回答で解答場所を間違えるという単純なミスから、希望とは違った大学に進学することになった。王さんは大学入学以降を「ツラい時期でした」と振り返る。

転機が訪れたのは大学3年生の夏休みだ。台湾1周で訪ねた友人宅でゲーム雑誌の日本語翻訳者を募集していた。日本語ならすでに相当の力を持っている。そこから授業そっちのけ?で雑誌の編集に携わることになる。単に日本から届いた雑誌を翻訳するだけではなく、自分で資料を探して確認したり、オリジナルのコーナーを作って読者からも好評を得た。没頭していたら卒業に6年かかった。卒業して2年間の兵役を経た2002年、改めて将来を考えることになった。

以前働いていた会社で経営陣にいた一人から、台湾オリジナルのゲーム雑誌を作らないか、と声をかけられた。雑誌は週刊。「まずは2年やってみよう。2年で結果が出ないなら辞めよう」と決めて参加した。創刊直後は、日本のゲーム会社にコピーを警戒されて、思うように素材が集まらない。だが、最初にカプコンが先行してデータ提供してからは、セガ、スクウェア、エニックス1など、日本のゲーム業界を代表する会社が次々と協力してくれるようになった。最も多い時期で50社以上と取引をしていたが、担当は自分一人。連日会社に泊まり、作業に追われた。

それまで台湾で攻略本を出すには、日本版の攻略本発売を待ち、翻訳してから台湾で発売する、という流れだった。だが、付き合いを重ね、信頼関係を築いていった王さんは、ゲーム会社から日本でも発売前のマスターROMを預かり、台湾におけるソフト発売と同時に台湾独自に作った攻略本を出版するまでになった。「今だって、ほかの会社ではこんなことは考えられないんじゃないでしょうか」

週刊誌を担当して4年ほど過ぎた2006年前後からだろうか、インターネットの普及に伴い、台湾でも雑誌は曲がり角を迎えた。限界を感じるようになる。ほかの部署の黒字を雑誌に投入するまでになっていた。大好きな雑誌の休刊を、自ら伝えた。休刊してからは「まるで抜け殻」だった。だんだんと退社が頭をもたげた。やれることはすべてやった、と別の業界への転職を考えた。辞意を伝えた取引先から、日本語と中国語、ゲーム、アニメに通じた人材はいない、と業界への慰留を求められた。そして——

(続きます!)

  1. スクウェアとエニックスはその後、2003年に合併。 []