『生命の記憶――文学の熱が溶かす雪』原題:昨夜雪深幾許(「昨夜の雪はどれほど深く?」の意)より
作品概要を見る→

母の記憶――奔流が海へ入るとき

 母がうつろな目で前方を見る。まるで忘却すら、忘却の中へ置いてきてしまったかのようだ。忘却の世界は、カラーもモノクロもなく、喜怒哀楽を使い分けることもない。記憶障害は母を攫〔さら〕って、時間の激流に飛び込み、にべもなく遠ざかっていく。岸辺から私は大きく手を振り、何度も名前を呼び掛ける。でも母は、頑として振り返らない。記憶障害はついに奔流となり、いずれかの大海に消える。それは無情な見送りであり、名残を惜しむことも、「さよなら」を言うことも許されぬ別れなのだ。

 父が死んで1年が過ぎたころから、母に病気の兆候が現れ始めた。私たち兄弟は、きっと伴侶を亡くしたことによる一時的な症状だと考えていた。ところが実際にはそんな楽観できるものではなく、さらに1年経って記憶障害の症状はますます顕著になっていった。典型的なアルツハイマー病であると医者に診断されたころには、母の時間認識はのっぺり然とし、過去、現在、未来の区別すらなくしていた。
 彼女に残ったのは、空間への認識だけであった。もはや昨日とか先週、去年などという言葉を口にすることはなく、無論、明日や未来を言い出すこともない。会話の内容は、二つの空間を行ったり来たりするだけになった。以前起こったことはすべて“前の家”の出来事であり、今感じることはどれも、見慣れぬ“新しい家”で起こっている。身の回りのことがすべて空々しく、ついこのあいだ引っ越してきたように思っているらしい。だが、実際には、彼女はここに住んでもう半世紀になるのだ。母は何度も私たちに訊いた――「いつ前の家に戻るの?」。きっと頭の中にはまだ、慣れ親しんだあの家がくっきり刻まれているのだろう。でも、懐かしい“前の家”には二度と戻ることができない。かわいそうな母は、それを理解することすらできないのだ。
 記憶障害は、ずかずかと彼女の生命に上がり込み、無情と不条理で私たちを責める。きっと屋根の上には名もない神が隠れていて、まさに今、目に見えぬ透明な鞭で、家族一人一人を打っているのだ。神は、私たちの眼前で、むざむざと母の記憶を一つ一つ回収していく。速度はひどくゆるやかで、感知することも容易ではない。私たち兄弟は無能な立会人として、母が少しずつ消えていくのを、やりきれない思いで見つめている。これは私たちに対する罰なのだ。

 失われてしまったのは、母の料理と裁縫の腕前であり、温かい笑顔であった。世間話や空模様、そして家族のことを伝える話術も消えてしまった。忘却が始まり、それまで当たり前のように行われていた日常がすべて止まった。まるでいたずらな神が、名作小説や長編詩の最終ページを破り去ってしまったかのように……。突如、芝居を打ち切られ、自分一人残された舞台をただ見ている母。大劇場の照明が、彼女の背中だけを静かに浮かび上がらせる。エンディングも、エピローグも、カーテンコールもなく、無論、拍手喝采もないまま。
 記憶と一緒に拭い去られたのは、ありふれた幸せであった。私は、母とおしゃべりをして喜びを分かち合う時間と、秘密の記憶を共有する場所を失った。私は哲学じみた疑問を繰り返えさずにはいられなかった――「忘却とはいったい何だ?」。長い人生の中で、忘却は記憶より遙かに強い。記憶がどれほど豊かであっても、忘却に付されるものはそれよりなお多い。記憶を背負う者は、なべて喜びと悲しみを同時に背負う。記憶が存在するそこに、生きてきた人生の重みがのしかかる。感情、欲望、権力、名誉……、そんな重みを背負うのは、ちっぽけな自分にほかならない。
 ならば忘却は、一種の解放なのだろうか。忘却は空白であり、永遠の静止であり、至上の調和である。苦痛、矛盾、焦燥、衝突の記憶が消え、忘却という無重力のような長い旅が始まる。母はもう、この重荷のない航海へと出発してしまったのだろうか。いや、母は目の前にいる。こうして白髪の頭をなで、手を温め、肩を抱くこともできる。でも、話を交わすことはできない。目の前に座っている母は、まるで防弾ガラスの中、監禁状態にも似た十全な保護を受けているように見える。二人はここで肩を並べていながら、まるで交信不可能な二つの世界にそれぞれ隔離されているようだ。私に投げかけられた母の視線は、私を見ているのか、見ていないのか。瞬くように結ばれた笑顔が浮かんではすぐ消える。私はついに理解した。母の笑顔に、内面の喜びなどまったく伴っていないのだ。

 母の顔をじっと見つめる。まるで、波一つ立たない湖を見ているかのようだ。意味は持たずとも、何か反応があるまで私は母と話すことをやめない。不意に広がった波紋が、また鏡のように静まる。湖には風もなく、映る影すらない。彼女を救う術など、私は持ち合わせていないのだ。つまり忘却とは、言葉を失くした表情、そして表情を失くした言葉のことをいうのか。さらに忘却はフリーズしたコンピューターのようで、保存してあったデータ、記録、画像、アドレスの何もかもが、名無しの神の意地悪な指一本でいとも簡単に失われてしまう。
 記憶が失われるとき、過去に起こったすべては無と化す。もし写真も、手紙も、書類も、記録も一切合切残っておらず、そしてさらに記憶が消し去られてしまったら、生命にはあと、どんな痕跡が残っているのだろう。

 

2

 忘却が空白であるなら、私が母に与えた傷も、跡形なく消えてくれているだろうか。母はかつて、私という息子を一度失ったことがある。そして今、二度と失うことはない。母がもうけた4人の息子と2人の娘のうち、彼女にずっと辛い思いをさせたのは私だけであった。また、兄弟の内で、遠回りの人生を送ったのも私だけだ。まさか自分が海外でしたことが、母に苦悩をもたらすことになるとは、考えてもみなかった。あの暗澹〔あんたん〕たる歳月もすでに過去となったが、母から届いたカセットテープの手紙や、はるばる異国まで会いに来てくれたときのことを思い出すたびに、静まっていたはずの感情はまた震え出す。
 両親への思いと国を思う気持ち。そのせめぎ合いが30代の私に、決まっていたレールから足を踏み外させた。もしリセットボタンを押して、人生をもう一度やり直すことができるのなら、私は同じ道を選ぶだろうか。やはり選ぶだろう。恐らく同じように、二つの思いの間でもがき苦しみ、最後はやはり国への思いに傾くだろう。私のような理想主義者、あるいはつける薬がないほどのロマンチストが最後、抵抗運動に身を投じるというのは、極めて自然なことだった。国のために道を追い求めるなら、両親への思いは断ち切らなければならない。母の傷はここに記された。
 海外で反政府運動に参加したのは、知識人としての負い目があったからだ。台湾社会に対して持ち続けていた罪悪感も、自ら行動することで少しは軽くなる――そう自分に言い続けた。ロサンゼルスで仕事を見つけた、と理由をでっち上げ、母に伝えた。よかれと思ってついた嘘だが、騙し通せるものではなかった。しばらくして母は、兄に手紙を預けて寄こした。その手紙は、情報部員が定期的に家を訪れるようになったと暗に告げていた。私は驚いた。思想検閲の手は台湾のみならず、海外まで広がっていたのだ。
 許信良〔きょしんりょう〕が創刊した反政府雑誌『美麗島週報』で原稿を書く際、私は30余りの筆名を使い分け、官憲の目を欺こうとした。しかし権力の目が届かぬ場所はなく、私の秘密行動など、到底秘密とはいえなかった。情報部員から、私の何を知ったのかはわからない。ただ、回り道の末届いた母の手紙で、私は“天下の大泥棒”になっていた。1982年、香港経由で1本のカセットテープが届いた。母が友人に頼んで送ってきたものだ。これほど間近に母の声を聴くのは、家を出て以来初めてのことだった。気持ちが激しく高ぶり、抑えがきかぬまま、ただ涙があふれた。カセットデッキが再生する声は普段通り穏やかで、私が家を離れている事実などまるでないように聞こえた。家族の状況が事細かに語られた。ご近所の変化、そして母自身のこと。「最近寒さに弱くなってね、きっと年だね」――何気ない一言のあと、母は何か大切なメッセージを告げるかのように言った――「お前が今、何がしたいか、私にはわかっているから。体に気を付けて。台湾の家族のことは心配しなくていいから」。ここまで聴いて私はこらえきれず、むせび声をあげた。
 アメリカの闇夜、私の耳元で母の声が響き続けた。私は自分を許すことができなかった。カセットテープの声は寛容であっても、そこに隠された傷を私は聞き取っていた。母が私にかけた期待はすべて打ち砕かれてしまったのだ。母の前で私はいつもいい子で、わがままを言うことなど一度もなかった。大学院を出るまで、母が私を誇りにしていることを、いつも肌で感じていた。その息子が学問を捨て、政治活動に身を投じる――そんなことになるなんて、母は想像だにしていなかったはずだ。

 1983年夏、両親が私の住むロサンゼルスへやってきた。寒がる母を見て、ずいぶん老けたように感じた。母はそれでも私の前で、屈託ない表情を見せていた。一方、父の表情は硬く、ひどく憂鬱〔ゆううつ〕そうであった。
 二人とも太平洋戦争を経験していたから、信用に足らない政治環境にどう処するべきか、知りすぎるほど知っていた。二人から感じたのは、戦後台湾人特有の我慢強さであった。両親は何かを畏れていたのではない。自分を表現する方法を知らなかっただけなのだ。そうして、何事にも沈黙をもって処するようになり、いつしか、打たれ強い彼らの性分ができあがった。
 二人の結婚が執り行われたのは、戦火のいちばん激しい時期であった。幼いころ、母の化粧台にしまってあった婚礼写真を見たことがある。新郎19歳、新婦18歳。無情な時代の激流のさなか、二人が互いに暖め合う方法は結婚しかなかった。セピア色の写真からは戦争のきな臭さが鼻をついた。つぶさに見ると、父の背広は、恐らく軍服から仕立て直したであろう、質素極まりない代物であった。母はベールを被り、ブーケを手にしていた。祝福のムードなどこれっぽっちもなく、仏頂面の二人はそっぽを向いたまま。あれほど重苦しい婚礼写真を、私は見たことがない。写真から伝わってくるのは、戦争のみじめさだけであった。
 写真が内包する歴史の意味を理解するのは、海外の放浪生活の辛さを骨の髄まで知ったあとのことだ。自分の境遇があって、少しずつ父母の運命を理解した。婚礼写真の二人の視線の先にあったのは、遠くて不確かな未来であった。その後、二人の未来に起こったことは、すべて私の身の上にも降りかかった。もしそこに歴史認識というものがあったとしたら、私と両親世代の間にある連帯感もまた、それを礎に確立されたのだろう。父母の目の前で日本による植民体制が崩壊し、その後、瞬く間〔ま〕に国民党による戒厳体制へと引き継がれた。もし時代の変化と政権の移行が、二人になんの喜びももたらさなかったとしたら、つまりこの父子二代の台湾人は、どちらも“解放”を知ることがなかったといってかまわないだろう。
 海外の政治活動に関わることに決めたのは、台湾の歴史に覚醒したからだ。1979年に起きたデモ鎮圧事件――美麗島事件で、繰り返される運命を目の当たりにした。父の世代が政治的足枷〔かせ〕を外すことができないならば、歴史の桎梏〔しっこく〕が私たちの世代にのしかかってくることは、自明であった。私たちが政治に無関心のまま、唯々諾々と運命を受け入れてしまえば、私たちの下の世代も同じく、体制の虜〔とりこ〕となる。だから、父の我慢強さを受け継ぐわけにはいかなかった。無意識に私は、父に不満だったのだ。私は臆病な自分の性格を変えたかった。唯一の救済は自ら扉を開き、外へ出ること。そうやって父たちの悪夢をかなぐり捨てる以外に、道はなかった。

 長い旅路のはて、母は私に、話したいことがいっぱいあるらしかった。口をついて出るのはお嫁さんや孫の話で、どれも私には初耳であった。父は一日中黙り込んでいて、どうやら話すタイミングを計っているようだった。
 父が口を開いたのは静かな午後だった。リビングで私と向かい合う父。母は窓際に小さく座っていた。台湾にいる家族に迷惑をかけるな、と、父は私を責めた。「『美麗島週報』の編集長だか知らないが、政府批判の文章を数え切れないほど書いているそうだな。軍警本部に言われた」。父は続けた。「調査局から毎日のように誰かがうちへ探りに来る。お前にこの辛さがわかるか」。背後から、母のすすり泣く声が聞こえた。
 延々と続く父の叱責。それは私にといって、針のむしろであった。歴史の答えを追い求めていた自分なら、台湾の運命を変えることができる。そう信じていた。しかし、何一つ変えることができないまま、自分のせいで、家族の運命が先に変えられてしまった。黙って認める以外、何ができるだろう。反論する気力もなかった。話し疲れたのか、父がついに叱責を止めた。私の口からつい言葉が漏れた。「父さん、もし父さんの時代に台湾の問題が解決できていたら、僕がこんなことをする必要はなかったじゃないですか」。父はその言葉に面食らったようだった。私は続けた。「もし父さんが僕と同じ世代に生まれていたら、きっと同じことをしたと思います」。返事はなかった。父は考え込むように、黙ってただ窓の外を見ていた。
 その日以降、父は何も言わなくなり、憂鬱な顔に戻った。母は何もなかったかのように、相変わらず私をつかまえては、家族や故郷のよもやま話をした。私にはわかっていた。母は話があるのだ。ただ、それを口に出せないだけなのだ。

 最後の日、台湾へ帰る二人を、車で空港まで送っていった。車中、母は一言もしゃべらず、父は父で、ずっと外の風景を眺めるふりをしていた。
 空港に着いた。母が早足で行ってしまうので、仕方なく私は、父と肩を並べて歩いた。税関検査の前で、母が振り返った。ようやくわかった。母は、涙でくしゃくしゃの顔を、私に見られたくなかったのだ。荷物を受け取り、母は私の目を見て言った。「芳明、約束して。普通の生活をするって」。私の答えも待たず踵〔きびす〕を返し、母はゲートをくぐった。そして二度と振り返ることはなかった。私は心を掻きむしられるような気持ちで、長い廊下を前に立ちつくし、父母の背中が少しずつ小さくなっていくのを見ていた。涙で何もかもがぼやけてしまうまで……。
 心が切り裂かれるよう痛みは、その瞬間に始まった。母は息子を一人失っただけでなく、膨らませていた期待も一緒になくしたのだ。私は弁明の機会も与えられず、またいかなる言いわけも見つけられなかった。間に横たわる広大な海が、その後のあらゆる対話を阻んだ。記憶は深い傷として残った。海の向こうで刻まれた傷は、いつまでもじくじくとして、傷口が開くたびに痛みが甦〔よみがえ〕る。

 

3

 1992年、ブラックリストが解除され、台湾へ戻ってきた私は、世紀末に起こった劇的な政治的転換に立ち会った。歴史が動く瞬間を目撃できたことに、言葉では表せないような喜びを感じた。それは長く待ち望んだ、強権体制崩壊の瞬間であった。いつか必ずそのときが来ると信じていた私に、それを見逃すことなどできようはずがなかった。
 無事な帰国を喜んでくれるはずの母は、まだ心配を押し隠しているように見えた。私と父との間には調停めいたもの成立していたが、賛成を取り付けたとまではいかなかった。台湾に帰っても政党活動を続けていた事実が、彼らを不安にさせたままだった。
 故郷の高雄・左営〔さえい〕へ帰るたびに私は、父母に頼んで彼ら自身の歴史を語ってもらった。話を聞きながらノートを取り、写真を撮った。カメラに慣れない母は、いつまでも恥ずかしがっていた。
 そもそも、母の昔の写真に、明るい笑顔など写っていない。私がいちばん好きなのは、1942年、結婚直後に撮られた母の写真である。他にはない1枚なので、とりわけ大事にしている。母は美人ではないし、中等教育も受けてない。でも控えめという美徳を持っている。パーマをかけた髪を後ろに流し、細かい花柄のワンピースを着た母は、顔を少し斜めにしたまま前方を見つめている。この写真は、母の生命のうち最もかけがえのない時間を切り取った1枚なのだ。このあとすぐ、台湾全土に戦火が広がった。生き生きと輝く母の姿はこの写真以外、どこにも残っていない。

 17歳のころ、私は恋愛において大きな挫折をした。傷ついた私を慰めようと、母が部屋までやってきて、じっくり話をしてくれた。私の記憶では、それが母との最初で最後の内緒話だった。
 母は台中・大甲〔だいこう〕の出で、少女らしい夢を持っていた。しかし生活の困窮は彼女から勉学の道を奪った。母は高雄にあった日本人経営の百貨店で、店員として働き始めた。もし生活苦がなければ、これほど早く結婚することはなかっただろう。結婚という足枷がなければ、モダンな職業女性として、たくさんの夢を叶えていたはずだ。結婚は彼女に古風な女性の役割を強いた。少女時代の夢はひねり潰されて粉々になった。
 母には秘密と物語がたくさんあって、思わぬところからふとこぼれ落ちた。両親への聞き取り調査が計画通り完成していたら、家族史という形でまとめることができたはずだ。しかし、父は急死し、母は記憶障害に攫われた。たくさんの物語が未解決事件のまま残された。そういえば、忘却が母の心を完全に覆いつくしてしまう前、母はふいに日本語で、大甲の想い出を語ることがあった。

 記憶とは神秘的なものだ。眠っていたかと思うと突然、目を覚ますことがある。母の口からこぼれたおしとやかな日本語から、彼女が過ごした楽しい少女時代を知った。ただそれは、ごく短い期間であったようだ。彼女の夢は、そのころ形作られたものだろう。
 二つの風景が浮かぶ。一つは、楽しげなメロディを口ずさみながら、街に向かって川岸を歩いている場面。もう一つは、日本から送られてきた雑誌を、日本人宿舎まで配達している場面。どちらも書店で働いていたころのことだろう。記憶に身を委ねる母の顔は、まるで幸せの歌を夢中で聴いているような、はじけんばかりの笑顔であった。母はことあるごとに、そんな記憶の中へ帰っていく。彼女の人生には、短くともおだやかで、楽しい日々があったのだと、その笑顔は教えていた。
 でも今は、そんなわずかな記憶すら、音も届かぬ密室の中にしまい込まれてしまった。遅すぎた帰還。母のそばに戻ってきたときにはもう、名もない神が、母の記憶を回収し始めていた。神は母を罰するだけに飽き足らず、しいて私を責め苦にする。母を傷つけてしまったことは克明に私の記憶に残しておきながら、母の赦〔ゆる〕しを得ることも許さず、透明な壁に囲まれた部屋で監禁されている母の背を、まざまざとこの目に焼き付けさせる。

 オペラのエピローグ、歌声が高らかに響き渡る。ゆるゆると幕が降り、スポットライトが消えていく。厳かな別れの儀式が、観客に物語の終わりを告げる。祝福に包まれた劇場で、魂は清らかに洗い流され、体は音符に癒される。こうして物語は過不足ないエンディングを迎えるのだ。
 でも母の物語にはエピローグがない。歌声は突然途切れ、ライトは無下に消され、広々とした劇場で、母の影だけが舞台に長く伸びる。拍手も音楽もなく、物語が最後に迎えるのは、結末のない結末、続きのない続き、そして事故のような未完成であった。物語は急流に攫われ、波は荒れ狂ったあと、無情に消える。母はまだここにいるのに、記憶だけがきれいに洗われた。記憶障害は彼女を捕まえ、波と共に悠然と去り、二度と戻らない。私は母を呼ぶ。いつまでも呼ぶ。母は振り向きもせず、奔流は海と一つになる。

(了)

 

関連する記事を読む
関連イベントの内容を見る→
作品概要を読む→
臺灣~繁体字の寶島 #4 を読む→

 

 天野健太郎
copyrights © 2014 Bunbundo Translate Publishing LLC All Rights Reserved