『台湾職人録~52人のマイスター~』(原題:『職人誌』)

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「確かな段取りで 悠久の音色を」
銅鑼職人:林烈旗

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鉄工所で銅鑼づくり

 台湾北東部、宜蘭市の街中にある「林午鉄工廠(鉄工所)」。大通りに面した店の中に入って行くと、奥は広々とした作業場になっている。大小の銅鑼が床に並び、壁に掛かっているさまは壮観だ。ここは現店主の林烈旗の父、林午が創立した銅鑼の老舗。1963年に林家の三兄弟が共同で興した鉄工所が前身である。

 もともとは造船技術を学んでいた林午だが、造船だけでなく高圧送電線の鉄塔、水車、建築用品なども手がけた。得意としたのは板金、打ち出し成形、鍛鉄、銅の溶接だった。

 あるとき、ひとりの客が店に銅鑼を持ち込んできて、修理してほしいという。壊れて使い物にならなかった銅鑼が、林午の腕にかかって新品同様に生まれ変わった。客は大喜びで林の腕前を褒め称え、以来しばしば銅鑼を作ってほしいと注文が入るようになる。徐々に技術を体得していった林午は、銅鑼の形状を研究し、よそよりも大きく、より遠くまで音が響くような銅鑼を作りはじめた。口コミで評判が広がり、当初は年に6個くらいだった注文がどんどん増え、10個から多いときには30個、50個になることもあった。

 林烈旗は子どものころ勉強が嫌いで、進学もしなかった。そこで自然と父について技術を学んだ。手伝いながら技を習得し、この鉄工所からずっと離れたことはなかった。

音は大きく朗々と
調律は自分の耳が頼り

 父が他界し、衣鉢を継いだ林烈旗は、銅鑼づくりを始めた父の初心を守り、日頃から試行錯誤を重ね、暇さえあれば各種の材料や、造形と音の関係を研究し続けている。銅鑼づくりは口で言うのは簡単で、基本的には音が出さえすればよい。だが良い音でかつ澄んだ音を出すというのは、実はたいへん難しいことなのだ。

 銅鑼の構造は非常に単純である。円形の打面のやや膨らんだ中央部は「鑼臍〔ルオチー〕」と呼ばれ、側面は「鑼辺〔ルオピェン〕」と言う。よい銅鑼は、音が大きく朗々と澄んでいなければならず、雑音が混じっていてはならない。連打したときに、音が遠くまで連綿と響き続けなければならない。

 銅鑼が発する音域と音量は、銅鑼の寸法、「鑼臍」の大きさと厚さ、「鑼辺」の勾配に大きく影響を受ける。林烈旗は父からよく言い聞かされた。「銅鑼づくりは人生と同じだ。どの工程も一つたりともおろそかにしてはならん」

 まず、最初の材料選びの段階から慎重を期する必要がある。材料の硬度が、発する音に絶大な影響を与えるからだ。「材料を選ぶときは、硬さだけでなく、銅板の合金の割合にも注意しないといけない。銅鑼は銅合金で作るのがふつう。純銅だと硬すぎて、叩くとすぐひびが入ってしまうから作りづらい。合金の材料はリンと錫だけど、添加元素が多すぎても音の響きが悪くなる。そうなったら(銅合金の)製造業者に伝えて調整してもらわないといけない」と林烈旗は説明する。
制作する銅鑼の性質に応じた材料を選んだら、適当な大きさに裁断し、槌で打ち始める。第一の工程は「鑼臍」を打ち出すことだ。続いて内から外に向かって銅鑼の表面を打っていき、先に造形と硬度を決める。次に「鑼辺」を打ち、最後にこれを銅鑼面に溶接する。小さな銅鑼なら一体成形も可能だが、大きな銅鑼は別々に打って、溶接でくっつけるのである。

 続いては調律。銅鑼は打面の高低も幅もみな音に影響するので、ずっと叩き続けて音色を調整しなければならない。芸能パフォーマンス団体用に作るときはチューニング・メーターを使うが、ふつうは自分の耳で音をよく聴いて判断する。調律が終わったら銅鑼をきれいに洗い、そのあと磨いてつや出しをすれば、完成だ。もっとも、磨き上げの工程は必ずやるわけではない。自然に酸化した素朴な感じを好む客もいるからだ。酸化しても音には影響しないので、客の好みに合わせて制作する。

よい銅鑼に力は不要

 これまで人生のほとんどを銅鑼づくりに費やしてきた林烈旗の、銅鑼に対する思い入れは非常に深い。銅鑼は、正しく使用すれば、何世代でも全く問題なく使えるのだという。壊れるのはほとんどが、叩くときに強く力を入れすぎたせいで、銅鑼がガラスのように割れてしまう場合だ。「どんな銅鑼でも叩いたときの音の響き具合は決まっていて、それ以上力を入れても音が大きくなるわけではない」と林烈旗は指摘する。よい銅鑼なら、ばちを手にとり、「鑼臍」に狙いを定めて水平に叩くだけで、遠く均等に響く音が出るのだという。

林家三代の銅鑼づくり
息子に継承を期待

 銅鑼づくりは簡単な稼業ではない。たくさんの技術が必要だし、相当の経験を積まなければならない。1年や2年で習得できるものではない。それだけにきちんと伝承されていってほしいというのが、林烈旗の最大の願いだ。林烈旗は弟子はとっていないが、大学の医学部で学んでいる息子に小さい頃から手伝いをさせている。成人した今も休暇で帰省したおり一緒に銅鑼を制作することがある。幼い頃から一緒に教えてきた甥や姪も、伝承ということをよく理解してくれているので頼もしい。林烈旗はこれまでの人生で会得したことを可能な限り次の世代へ伝授している。

 林烈旗は父から直接銅鑼づくりを学んだため、大きな困難にぶつかることはなかった。しかし、質の良い原料銅を確保し、いかに新しいものを作り続けていくかということは、たえず考えている。銅鑼の制作は毎回が新しい挑戦のようなもので、注文通りの品をうまく作れるかどうか、いつも頭を悩ませている。だから作品が順調に出来上がったときの嬉しさは、言葉では言い表せないという。それが客の満足と賞賛を得られたなら、喜びもひとしおだ。

コラム:銅鑼と台湾社会

 通信技術が発達していなかった昔の農業社会では、小型の銅鑼は大衆に情報を伝達する大事なツールだった。村じゅうを行き来して、人々に各戸の用事を伝えたり、公共の事柄を告知したりするのには、小型の銅鑼が頼りだった。

 台湾では、神仏の誕生日になると、諸神を神輿に乗せて街を練り歩き、平安息災を祈願するという風習がある。そして各地の寺廟は「陣頭」と呼ばれる伝統芸能パレードを繰り出して神仏の誕生日を祝い、祭りの雰囲気を盛り上げる。

 陣頭には「獅陣」(獅子舞)、「牛犂〔ぎゅうり〕陣」、「跳鼓陣」(踊りと太鼓)、武術パフォーマンスを行う「八家将」「宋江陣」などさまざまあるが、どの陣頭でも行進のさいに伝統音楽の加勢は欠かせない。なかでも銅鑼はなくてはならない存在だ。陣頭によって用いる楽器は異なるが、行列の先頭としんがりで指揮をとるのはまず銅鑼である。

 寺廟や縁日の伝統行事のほか、銅鑼は今では芸能パフォーマンス団体でも活用されている。音階楽器として使われることさえあるのだ。

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文・訳=阪本 佳代(さかもと かよ)

東京外国語大学中国語学科卒、東京大学大学院経済学研究科中退。産経新聞記者を経て、現在フリーランスの翻訳者・ライター。2006年から3年間台湾で暮らす。共著に『毛沢東秘録』(扶桑社)。目下、話題の台湾映画のコミカライズ本『KANO1931海の向こうの甲子園~()』(翔泳社、近刊)を制作中。