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一国家一言語一文学という近代文学の常識を鮮やかに覆し、
漢文、中国語、日本語、台湾語など多様な言語からなる台湾文学。
この多元性、ハイブリッド性こそが台湾文学のいちばんの特徴です。
今月は楊逵とその作品をご紹介します。

楊逵(1)

文=赤松美和子

これまで中国語で創作する作家ばかりを紹介してきましたが、台湾文学を語る上で、日本語で執筆せざるを得なかった作家たちの存在を看過することはできません。
今回は、最初に東京の商業誌に小説が掲載された台湾人作家である楊逵ご紹介いたしましょう。

楊逵は、作家としてはもちろんのこと、社会運動家としても知られています。ちなみにひまわり学生運動で行政院占拠のリーダーとして一時拘束された魏揚〔ウェイヤン〕は楊逵の曾孫です。

楊逵については、台湾文学研究の第一人者であり楊逵とも交流があった河原功先生が、『講座台湾文学』(国書刊行会、2003)の第3章に「楊逵の生涯-一貫した抵抗精神」と題して詳しく紹介していらっしゃいますので、参照しながら楊逵の生涯を辿っていきたいと思います。

楊逵(本名は楊貴)は1905年、日本統治下の旧台南州大目降街(1921年に新化街と改称)に生れました。家は貧しく、病弱のために遅れて10歳で公学校1 に入学したものの、中学受験に失敗、糖業試験場で日雇として働き、翌年中学校に入学しました。しかし、両親が勝手に決めた童養媳2 〔トンヤンシー〕からの逃避、また左傾思想への関心により、1924年に中途退学し東京に向かいます。

東京では、新聞配達夫、日雇人夫として学費や生活費を稼いでいました。国会議事堂建設現場で足を滑らせて命を落としかけたこともあったそうです。1925年、楊逵は日本大学専門部文科文学芸術専攻(夜間)に入学し、文学や演劇、社会運動や労働運動に関心を寄せていきます。

1927年、台湾農民組合の召還に応じて台湾に戻り、警察に幾度も逮捕されながらも、台湾文化協会の中央委員として社会運動を続けていきます。1929年、社会活動家・葉陶〔ようとう〕との結婚式当日にも、楊逵と葉陶は逮捕されています。その後31年の左傾分子大量検挙により台湾の社会運動は壊滅的に打撃を受け、楊逵は文学活動へと身を転じていったのです。

1932年、短編小説「新聞配達夫」を『台湾新民報』に発表したものの、後半部分は掲載禁止となります。そこで、東京の『文学評論』に懸賞応募したところ、第二席に入選し、「新聞配達夫」は『文学評論』一巻八号(193410月)にようやく全文掲載されました3

日本植民地時代の日本語文学を私たちが読む方法については、和泉司さんがウェブサイト「超漢字マガジン」でご紹介なさっていますのでぜひご参照ください。

現在、新刊本として購入可能なものは、黒川創編『南方・南洋 台湾 (「外地」の日本語文学選)』(新宿書房、1996)、『帝国日本と台湾・南方 (コレクション 戦争×文学)(集英社、2012)の二冊です。他にも『日本統治期台湾文学集成』(緑陰書房)などの復刻本が出版されていますが、お高いので図書館でご覧になることをお勧めします。

幸い、楊逵の作品は、「新聞配達夫」が、黒川創編『南方・南洋 台湾 (「外地」の日本語文学選)』に、「増産の蔭に」(1944)が『帝国日本と台湾・南方 (コレクション 戦争×文学)にそれぞれ所収されています。
(続きます!)
 

バックナンバー

#1 台湾文学史 清朝〜日本統治時代はこちら
#2 台湾文学史 終戦〜70年代まではこちら
#3 台湾文学史 80年代〜2000年代まではこちら
#4 作家紹介第1回 黄春明・前編はこちら
#5 作家紹介第1回 黄春明・後編はこちら
#6 台湾文学は夏に作られる・前編はこちら
#7 台湾文学は夏に作られる・後編はこちら
#8 作家紹介第2回 白先勇・前編はこちら
#9 作家紹介第2回 白先勇・後編はこちら
#10 作家紹介第3回 李昂・前編はこちら
#11 作家紹介第3回 李昂・後編はこちら
#12 作家紹介第4回 朱天心・前編はこちら
#13 作家紹介第5回 朱天心・後編はこちら

10250674_794106527269313_1092258525_n赤松美和子(あかまつみわこ)
大妻女子大学比較文化学部准教授。
博士(人文科学)。1977年、兵庫県生まれ。
2008年、お茶の水女子大学大学院博士後期課程修了。専門は台湾文学。
著書に『台湾文学と文学キャンプ―読者と作家のインタラクティブな創造空間』(東方書店)がある。

  1. 「公学校」とは台湾籍学童を対象とした小学校を指します。台湾在住の日本籍児童が大半を占めた「小学校」と区別されていました。 []
  2. 成年前の幼女、少女を買い育てて将来男児の妻とする旧中国の婚姻制度。 []
  3. 中国語版は、胡風〔こふう〕により上海の『世界知識』二巻六号(1935年6月)に掲載。 []