あらすじ

 

I .つぎはぎの舌

邵ォ荳頑眠闊碁_p391.日本かぶれのおばあちゃん
 1973年に台湾南部の屏東県で生まれた私。毎日小学校で、中華民国「国旗」に敬礼し、「国語」である標準中国語を学ぶ。でも家では日本の皇民化教育を受けたおばあちゃんが、「北国の春」を聴いてうっとりしている。中国を侵略した「日本鬼子」は敵なのに、かぶれるなんて恥ずかしい。私は愛国・忠党・嫌日・反共の模範的な「中国人」。台湾の歴史は何も知らない。

 
 
邵ォ荳頑眠闊碁_p532.つぎはぎの舌
 私の周囲ではいろんな言葉が飛び交っていた。でも母が話す客家語と、おばあちゃんの日本語は分からない。ふだん家ではホーロー語(いわゆる台湾語)を使うけど、「方言」の台湾語なんて、田舎くさくて、かっこ悪い。テレビのアナウンサーのようなきれいな中国語が話したい。まるで自分の舌を切り取って新しい舌を縫い付けるように、正しく美しい発音をマスターした私。でもある日、駄菓子屋のおじさんに、大陸から来た「外省人」の子と間違われて、のっぺらぼうになった気がした。私は一体何者なの?

邵ォ荳頑眠闊碁_p643.大嫌いな日本の、大好きなマンガ
 祖父母世代が日本時代を恋しがるのを「民族の恥」だと思っている私も、実は日本のマンガとテレビ番組は大好き。貸本店でマンガ本を借りてきては、ドラえもんと一緒に夢の世界に遊んだ。テレビを見て日本の男性アイドルに憧れたし、時代劇やプロレスにも熱中した。それから台湾伝統歌劇の「歌仔戯(ゴアヒ)」には夢中になった。中華の伝統文化こそ正道と信じているけど、“敵”の日本文化と“下等”な台湾文化の誘惑にも勝てない。私の生活は矛盾だらけだった。

4.反共ポスターはお手の物
 当時の小学校では「保密防諜」(反共・反スパイ)教育の一環で、みなが啓発ポスターを描いていた。私はこれが大得意で、コンテストに入賞して表彰されたこともある。毛沢東も共産党のスパイも実際に見たことはないけれど、お手本があるからイメージするのは簡単。偉大な「自由中国」であるわが中華民国に対し、大陸は悪い「共匪」(中国共産党)のせいで「専制中国」となり、庶民は苦しめられているんだって。共産党も国民党も、全く同じ言い方で人民を「洗脳」していたんだと知ったのは、大人になってからだった。

5.開票停電
 選挙期間中、近所の廟は演説会場になり、屋台も出てちょっとしたお祭り騒ぎ。道にはずらーっとのぼりが立ち、選挙カーが走る。小学生の私にはもちろん選挙権はないけれど、あるとき道端でおじさんたちの立ち話を聞いた。開票時に「なぜか」停電になるという話。候補者がカネをどれだけばらまいたかという話。学校やテレビで聞く民主選挙と、現実の選挙はずいぶん違うみたい。

6.マンガは無益
 1983年から私は隣町の中学校に通った。進学校で厳しい詰め込み教育だった。楽しみといえば貸本店で借りてくるマンガだけ。でもある日、友人が学校にマンガ本を持って来ているのが先生に見つかり、きつく叱られた。マンガは人生で何の役にも立たないって。私たちの目標は、テストで良い点を取って、良い高校に進学することだけだった。

7.さよなら総統さま
 1988年、蒋経国総統が亡くなった。学校の先生から「悲しい知らせ」を聞いた私は驚き、息せき切って家に帰る。でも母は淡々としていた。わが家の食卓ではよく独裁政権を批判する会話が飛び交っていたのだけれど、その晩の夕食は奇妙なほど静まりかえっていた。この前年には40年近く続いた戒厳令が解除され、いま蒋介石の息子も世を去った。独裁政権は、これで終結したのかしら?

II .悪夢から覚めて

1.田舎娘が台北へ
 私は台北の名門高校に合格し、晴れて故郷を後にした。その頃台北ではマクドナルドがオープンしたばかり。アメリカ人と同じハンバーガーが食べられるなんて嬉しい! 都会育ちのクラスメートは英語ペラペラであか抜けていて、田舎の優等生でしかない自分が平凡に思えた。点数だけが人生の全てじゃないんだ。

2.試験地獄
 1990年、17歳の私の高校生活は勉強漬けの毎日。先生はテスト至上主義で、暗記の仕方や高得点をとれる秘訣を伝授してくれる。頭にはいっぱい知識を詰め込んだけど、心の中は空虚だった。唯一好きだったのは沈先生の歴史の授業で、暗記一辺倒ではなく、参考書にない興味深い話をいろいろしてくれた。でも大学受験には必要のない知識だった。

3.天安門事件
 1989年、中国で天安門事件が起きた。小さい頃から中国文化は優秀だと叩き込まれてきた私は、海外メディアの報道でその醜悪な一面を見て、呆然とした。翌1990年には台北の中正紀念堂でも学生運動(野百合学運)が起きたが、大学受験をひかえた私は関わらないようにしていた。せっかく大学に入ったのに、なぜあの人たちはデモや抗議活動をして人生を棒に振るんだろう? 20年後に自分もパリで天安門事件追悼デモに参加しようとは、当時は夢にも思わなかった。

諠。螟「驢剃セ・・譁㍉0012_p624.悪夢から覚めて
 1991年、私は台湾大学に合格した。専攻したのは歴史科。それまで官製の中国史や地理の知識しかなかった私は、初めて台湾の歴史や地理を知って、長い暗闇から抜け出したような気分だった。1947年に起きた「228事件」と、その後の白色テロのことも初めて知った。「歴史の真相」は、それまで信じてきた「常識」とはあまりにもかけ離れすぎていて、受け入れるのが苦痛だった。さらに国民党は敵だったはずの共産党と手を組もうとしているらしい。これが祖国と信じ、愛してきた中華民国の本当の姿? こんなの私の国じゃない。こんな欺瞞に満ちた国は要らない。

5.三民主義は、われらの指針?
 台湾の映画館では、上映前に中華民国国歌が放送される。「三民主義、吾党所宗(三民主義は、我が党の指針)……」が流れる間、全員起立しなければならない。私も小中高時代ずっとそうしていたものだ。でも「国歌」にも「国旗」にも敬意を持てなくなった1991年を境に、私は起立しなくなった。おかげで見知らぬ人から罵られることもしばしばだった。

6.選挙ポスターの落書き 
 1994年に初の台北市長の直接選挙が行われた。国民党を離党して新党を結成した趙少康という政治家が出馬したが、彼の政見はどうも胡散臭かった。街中で趙少康の選挙ポスターにひげの落書きがあるのを見かけ、私も真似てやりだした。ひげは独裁者のイメージを皮肉ったものだ。この市長選では結局、民進党の陳水扁が勝利した。陳水扁はその後総統になったが、現在は服役中だ。

7.地下放送局と自由の声
 母は客家出身だけど、私は母やいとこ達が話す客家語は分からなかった。1990年代になると地下ラジオ放送局が続々誕生し、客家語や各原住民語(台湾先住民族の言語)の専門チャンネルもできた。こうしたラジオ局は政府批判をするので、たびたび摘発を受けていた。2003年にはついに客家語と原住民語の専門テレビ局が誕生。でもいまだに私は母語のひとつであるはずの客家語が、外国語より話せない。

8.金権選挙
 台湾の選挙はカネで動く。地元でも選挙があるたびにカネが飛び交っていた。票の買収は周知の事実なのに、どうしてみんな黙っているのか不思議でならない。1994年に私は母に勧められ、民進党の政治資金パーティに出席した。パーティで流れる台湾語の歌曲を聞き、幼い頃に台湾語や日本語の歌を毛嫌いしていたことを思い出し、感慨深かった。

9.ジュネーヴの豚
 2009年、私はスイスのジュネーヴで、台湾のWHO(世界保健機関)加盟を求める民間のデモ行進に参加した。スローガンを叫んでいただけなのに、いきなり現地警察に捕まった。後ろ手に手錠をかけて連行され、厳しい尋問を受け、まるで家畜の豚にでもなった気分だった。私にとっては生まれて初めての経験。それも1950年代の中国ではなく、先進民主国家のスイスということが、余計にショックだった。幸い大事には至らなかったけど、これが「民主」の現実なのかしら? それでも私は、非暴力で社会を変革できると信じたい。

 

 

文・訳=阪本 佳代(さかもと かよ)

プロフィール
東京外国語大学中国語学科卒、東京大学大学院経済学研究科中退。産経新聞記者を経て、現在フリーランスの翻訳者・ライター。2006年から3年間台湾で暮らす。共著・共訳書に『KANO 1931海の向こうの甲子園』(翔泳社)、『毛沢東秘録』(扶桑社)。