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佐藤春夫「女誡扇綺譚」と台南(1)

文=黒羽夏彦

 1920年の夏、佐藤春夫は台湾を訪れた。当時、佐藤は『田園の憂鬱』を発表して新進作家として文名をあげつつある一方、同棲相手の不倫や谷崎潤一郎夫人への思慕など女性関係のこじれから神経衰弱の状態にあり、そうした煩悶から逃避するかのような台湾行きであった。高雄で歯科医を開業していた同郷の友人・東熙市〔ひがし・きいち〕の家に二ヶ月半ほど滞在、それから台北へ行き、東の紹介で知遇を得た民族学者・森丑之助〔もり・うしのすけ〕の世話になる。この間、台湾各地を旅したほか、対岸の福建へも渡航した。日本へ帰国後、台湾・福建旅行時の見聞をもとにいくつか作品を発表している(ただし入手が不便なので、佐藤の台湾作品で一冊のアンソロジーが編まれることを期待したい)。

 日本人作家が台湾を題材として生み出した文学作品のうち、最も有名なのは佐藤春夫が1925年に発表した「女誡扇綺譚」であろう(『怪奇探偵小説名作選4 佐藤春夫集──夢を築く人々』ちくま文庫、2002年、所収)。舞台は台湾南部の古都・台南。語り手となる主人公は台南の新聞社に勤める日本人で、その性格は佐藤自身を模している。鬱屈の日々を送っているが、意気投合した台湾人の友人・世外民に誘われて安平を訪れた帰途、気まぐれで禿頭港〔クッタウカン〕あたりを散策していたら、廃墟と化した豪邸を見かけた。好奇心にかられて中に入ってみると、誰もいないはずなのに女の声がする。実はこの豪邸の持ち主一族が没落した後も、一人娘が婚約者の来るのを花嫁姿で待ち続けながら世を去ったのだという。あの声は幽霊だったのか、それとも何か別の事情が秘められているのか──二人は真相を調べ始める。

「人はよく荒廃の美を説く。又その概念だけなら私にもある。しかし私はまだそれを痛切に実感した事はなかった。安平へ行ってみて私はやっとそれが判りかかったような気がした」──「女誡扇綺譚」の一節である。日本文学史の脈絡でこの作品を捉えるとき、例えば川本三郎『大正幻影』(岩波現代文庫、2008年)はこうした「荒廃の美」への志向に注目している。大東和重『台南文学──日本統治期台湾・台南の日本人作家群像』(関西学院大学出版会、2015年)は「佐藤が一九一〇年代に傾倒した荷風文学や、荷風が創作の上で大きな影響を受けたローデンバック『死都ブリュージュ』などの、廃墟としての都市を主題とする文学の影響」を指摘する。他方、比較文学者の島田謹二が「異国情緒の文学」の傑作と評して以降、この定評が継承されてきた問題については藤井省三『台湾文学この百年』(東方書店、1998年)を参照されたい。島田謹二については橋本恭子『『華麗島文学志』とその時代──比較文学者島田謹二の台湾体験』(三元社、2012年)に詳しい。

文学方面には門外漢の私が敢えて「女誡扇綺譚」という文学作品を取り上げるのは軽率のそしりを免れないだろうが、後述するように台南に軸足を置いて歴史や民俗に関心を寄せた学者たちも何らかの形で「女誡扇綺譚」を意識していた。そうである以上、台湾史を考えるという趣旨からも無視はできない。台湾文学史については「もっと台湾」で連載中の赤松美和子「ハイブリッド台湾文学」をご覧いただきたい。

 「女誡扇綺譚」のストーリーには想像力でふくらまされた部分が大きいが、作品中の風景描写は佐藤自身が目にしたものをもとにしている。ただし、台南の土地勘がないとどのあたりが舞台となっているのか分かりづらいだろう。さらっと読み流すと「幽霊」の出た廃屋は安平にあるかのように勘違いしてしまうが、実際には台南の市街地と安平との間にはだいぶ距離があり、件の廃屋は台南の市街地の西のはずれに位置する。また、佐藤は安平で赤崁楼を訪れたと記しているが、安平にあるのはゼーランディア城(安平古堡)で、赤崁楼は台南市街地にあるプロヴィンティア城を指す。

台南市街地の西のはずれにはかつて港の役割を果たした水路が張り巡らされており、主だったものが5本あったことから五條港という。禿頭港はその一つで、観光スポットとして有名な神農街のあたりである。ただし、佐藤が実際に訪れた廃屋は禿頭港の北側にある別の水路、新港墘〔シンカンケン〕に沿った地点にあり、現在の信義街に近い。

 1930年代、台南の学校で教鞭を執っていた前嶋信次 や新垣宏一 がすでに「女誡扇綺譚」の舞台を探し出していたが、その時点から考えても80年以上の月日が経過しており、街並みは大きく変化している。私が廃屋の場所を探すにあたり、河野龍也「消えない足あとを求めて──台南酔仙閣の佐藤春夫」(『実践国文学』第80号、2011年10月)を参考にしたが、具体的な場所を確認するにあたっては一青妙『私の台南』(新潮社、2014年)に登場するビンロウ売りの楊さんに助けていただいた。件の廃屋、実は楊さんのお店のすぐ裏手にあったのだ。

(続きます!)

 

 

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OLYMPUS DIGITAL CAMERA黒羽夏彦(くろはなつひこ) 台湾専門ブログ「ふぉるもさん・ぷろむなあど」、書評ブログ「ものろぎや・そりてえる」を運営。1974年生まれ。出版社勤務を経て、2014年3月より台南の国立成功大学文学院華語中心へ留学。東アジアの近現代に交錯したさまざまな人物群像に関心を持ち、台湾に視点を置いて見つめ直したいと考えている。