column_top_history

 

佐藤春夫「女誡扇綺譚」と台南(2)

文=黒羽夏彦

 日本統治期において行政や産業の中心として日本人居住率の高かった台北や高雄とは異なり、台南は圧倒的に台湾人の街であった。領台以前からの伝統的な生活光景がそこかしこに見られ、ここで暮らし始めたら否応なく「台湾らしさ」と向き合わざるを得ない。大東和重『台南文学──日本統治期台湾・台南の日本人作家群像』(関西学院大学出版会、2015年)は、そうした日本統治期の台南と密接な関係を持ち、日本語を用いた文学活動を行った6人の日本人について論じている。佐藤春夫、前嶋信次〔まえじま・しんじ〕、國分直一〔こくぶ・なおいち〕、庄司総一〔しょうじ・そういち〕、西川満〔にしかわ・みつる〕、新垣宏一〔にいがき・こういち〕──厳密には「作家」とは言い難い人物も含まれているが、広く文学に関わる活動をしたという意味で取り上げられている。

前嶋信次といえばイスラム史や東西交渉史の泰斗として知られる。彼と台南の関係は意外に感じられるかもしれない。1928年、台北帝国大学が設立されたとき、恩師である藤田豊八が文政学部長として赴任、前嶋も助手として一緒にやって来たのが台湾との縁の始まり。ところが、藤田が病死した後、人間関係の問題もあって大学を離れ、台南第一中学校へ転任する。失意の中、自らを慰めるかのように台南の街を歩き回り、この地の歴史研究に没頭した。大東氏は、そうした前嶋の台南散策に永井荷風『日和下駄』の影響を見出している。前嶋は台南へ来てからも佐藤春夫「女誡扇綺譚」の舞台を探し出しているように、もともと文学への関心が強い。「媽祖祭」(『前嶋信次著作選第三巻 〈華麗島〉台湾からの眺望』平凡社・東洋文庫、2000年、所収)という文章など幻想的で実に美しく、一読をお勧めしたい。

台南で「女誡扇綺譚」の舞台探しに熱中した人物としてはもう一人、新垣宏一がいる。高雄に生まれ、台北帝国大学に学んだ生粋の台湾育ちで、1937年から台南第二高等女学校で教鞭を執った。彼は積極的に作家活動を行っていたが、むしろ文学考証の方で本領を発揮したという。とりわけ「女誡扇綺譚」をめぐる考察が大きなきっかけとなっていたが、やがて台南の民俗へと関心を広げていった。皇民化運動が推進される時代背景の中で新垣が「女誡扇綺譚」をどのように捉えていたかについては、和泉司『日本統治期台湾と帝国の〈文壇〉──〈文学懸賞〉がつくる〈日本語文学〉』(ひつじ書房、2012年)で分析されている。

西川満が1940年に発表した「赤崁記」は、ある意味、「女誡扇綺譚」の向こうを張るような意気込みで書き上げられた作品。鄭氏政権末期のエピソードをもとにした歴史小説である。大東氏は、『国性爺合戦』以来の鄭成功というモチーフと、西川が愛好していた谷崎潤一郎の影響とを特徴として指摘している。西川の名前は日本文学史においての知名度こそ低いが、日本統治期の台北で自ら雑誌や書籍を刊行し、台湾文壇形成の立役者となった。日本統治期の台湾史を考える上でも逸することのできない人物である。

西川にはロマンティシズムへの嗜好が強い。彼は題材として台湾への愛着を示してはいたが、それが必ずしも台湾社会への内在的理解を伴ったものではないという批判を受けることになる。前嶋や新垣と共に「台南学派」の一人に数えられた國分直一は、西川の台湾への愛着に共感しつつも、それが唯美主義に陥りかねない点に警告を発した。台湾人の生活感情を理解する必要を感じていた國分はやがて雑誌『民俗台湾』に関わるようになる。國分は台南第一高等女学校の教諭として台南に住んでいた。その時の経験が、台湾史が先史時代以来積み重ねてきた重層性へ目を向けるきっかけとなっている。そうした成果は、例えば『壺を祀る村──台湾民俗誌』(法政大学出版局、1981年)などの著作に見ることができる。

庄司総一は少年時代を台南で過ごした。作家としての知名度はあまり高くないが、1940年に発表した小説『陳夫人』は台南の旧家を舞台として、「内台結婚」(日本人と台湾人の結婚)問題や植民地台湾の現実に直面した台湾知識人の苦悩など、台湾社会の現実を描き出そうとした意欲作で、当時は評判となった。

 

 

コラム「台湾史を知るためのブックガイド」のその他の記事
全記事のリストはこちら

 

OLYMPUS DIGITAL CAMERA黒羽夏彦(くろはなつひこ) 台湾専門ブログ「ふぉるもさん・ぷろむなあど」、書評ブログ「ものろぎや・そりてえる」を運営。1974年生まれ。出版社勤務を経て、2014年3月より台南の国立成功大学文学院華語中心へ留学。東アジアの近現代に交錯したさまざまな人物群像に関心を持ち、台湾に視点を置いて見つめ直したいと考えている。