連作短編集『次の夜明けへ(仮題)』部分訳
原題:『下一個天亮!!!』

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訳=天野健太郎

「次の夜明け」
あの日、帰宅したときから、春蘭〔しゅんらん〕の夫はおかしくなっていた。まるで誰かに魂を吸い取られ、抜け殻だけがそこにあるようだった。春蘭だけでなく、隣人、同郷、親戚たちがどんな言葉をかけようと、彫刻のように沈黙する夫になんの変化もなかった。それ以降、彼が誰かになにか話すことはなくなった。聞こえてくるのはただ、「うー」「あー」「おー」という、意味をなさない母音だけだった。夜眠るときでさえ、どんな夢を見ても歯を食いしばり、言葉を発することはなかった。春蘭の夫は頭がおかしくなったんだ、と誰もが言った。なにかに憑かれてる。お祓いに行ってこい。でも、ひとりはこう言った。「日本人の神社も壊されたし、ご寺廟の神さんは消えてしまった。神さんの落ち着く場所がないから、こんなふうにたくさんの人が発狂するんだ」 みな自分の親切な意見を置いていく。その言葉のなかで、春蘭の夫はもはや廃人であった。ご近所同士の言葉がそのまま形を持ち、事実となってしまう前に、春蘭は子供の手を牽き、おなかの赤ん坊を抱えて、しばし彫刻となった夫を布でくるみ、一家で南部へ逃れることにした。すべての家財道具を載せた車は、まさに彼女の一生の証しに見えた。
「こんな時代だ」 と春蘭は思った。「家族でいっしょに暮らせればそれで十分だ」

十四歳のあの年から始まった変化を、春蘭ははっきり覚えている。村は変った。村民の口を発し、空気中を伝わる言葉に「マス」「デス」がつくようになった。形もないその風はすごい速さで吹き抜けた。前から春蘭の耳に届いていた風が、今は、口までも貫いた。考えていたほど難しくなく、春蘭は「マス」「デス」と仲のいい友達になった。父や母はやっぱり、新しい友達とすぐには馴染めなかったが、それでも頑張って「マス」「デス」を使い、生活のあれこれを伝えあった。しばらくして、誰かがやって来て、一家を称えながら「模範家庭」という札を玄関に打ち付けた。父と母は、「トーサン」「カーサン」と呼ばれるようになった。それまでにぎやかだった食事風景も、トーサンの「イタタキマス」のあとは静けさに変わった。家族が黙って一口一口、ご飯を箸で運んでいると、まるで時間をいっしょに食べているように思えた。
時間はたしかに、少しずつ食われていった。自らの名前もまたもっと残酷に噛み潰された。春蘭は「ハルコ」となり、同世代の男女は、「タロチャン」や「シンチャン」、「ナナコ」や「アイコ」と呼ばれるようになった。まるでみんな、大きな漬け物の瓷〔かめ〕のなかに漬けこまれているようだと、春蘭は思った。彼、あるいは彼女、それとも彼ら、彼女たちはそれよりも、パニックに陥った子鹿に似ていた。十字路や三叉路に行き当たるたびに子鹿は、行ったことがないほうへと導かれていく。春蘭は、まるで自分が眠りのなかにいるように思えた。夢から醒めるのをずっと待っている。でも夢のなかで彼女は、どんどん背が高くなり、年齢を重ねていく。二十二歳になって、漬け物の瓷から這い出してきた男が彼女を嫁にした。彼女はやっと、現実感を取り戻したような気がした。でも、時代は変わってなかった。彼女はまた別の呼び方を強いられた。まるで蛇が脱皮しなければ成長できないように、「呂春蘭」から「宮本春蘭」になり、さらに「小林春蘭」へと脱皮した。
春蘭はその名前がとても好きになった。小さな、神秘的な林のなかで、春の神たちに愛された蘭が、肩を寄せあって咲いている情景が見えた。春蘭はその男が好きになった。そんな美しい姓を彼女の名前と結びつけてくれた男のことを…… 彼女に地道な幸せある生活を与えた男のことを…… 男は新聞社で、がむしゃらに仕事していた。動乱の時代、春蘭は初めての子供を授かった。毎日、決まった時間に掃除するのが、時間をつぶす一番の方法だった。そしてラジオはあたかもよくなついたペットのようで、かんしゃくを起こすこともなく、彼女の判を押したような生活にやさしく寄り添った。その日、ラジオはおなじみの『雨夜花(雨の夜の花)』を流し始めた。前奏が終わり、春蘭がラジオに合わせて口ずさもうとすると、聞こえてきたのは耳慣れぬ歌詞だった――「赤い襷に誉れの軍夫 うれし僕等は日本の男 君に捧げた男の命 何で惜しかろ御国の為に」
(略)
春蘭は思った。あるいはふたりはまだ、漬け物の瓷のなかにいるのかもしれない。それとも、前の瓷から新しい瓷へ移っただけなのか。行くべき道をずっと探し続けているような気さえした。「でも、いい」と春蘭は自分に告げた。これは長い夢なのだ。目を閉じれば、あとは、次の夜明けを待つだけだ。
男が予想した通り、日本は負けて撤退し、それからすぐ別の集団がやってきた。男はあいかわらず“新聞”が漬かった瓷のなかにいた。ただ新聞社の名前はいくども変わり、権力者がその椅子に坐るたびに、その権威を見せつけ、また守るために合併と名称変更を繰り返した。春蘭と男の暮らしはよくもならず、悪くもならず、ただ、用心深くなった。新聞社の給料は、ふたりの生活には十分だった。だから春蘭は心配しなかった。カーサンがくれた嫁入りの持参金を使えば、もっといい暮らしができたが、男はそれを許さなかった。息子、平和はもう生まれていたが、時代とともに名前が「小林平和」から「林平和」へと変わっていた。本当の意味での「平和」は、遅々としてやって来なかった。
帰宅すると、男はよく怒りをぶつけるようにこんなことを言った。「なにも出来ないくせに、オレたちの倍の給料を取りやがって。なにが『国語〔グオユー〕』だ! コクゴが国語だ!」
春蘭はうまく答えられなかった。そんな話題に彼女はいつも縮こまった。なにが正解で、なにが誤りなのか、すぐにはわからず、しばらくして、自分なりの答えが出たころには、相手はもう、そんなのもうどうでもいいという顔をしているのだ。それでも春蘭は、自分の頭のなかを整理してみた。身長がテーブルの高さと同じくらいだったころ、彼女の「国語」は台湾語[閩南語]だった。そのうち、父から言われた。日本語を話せればヤマト民族の一員になれるチャンスがある。そして今、また一陣の風が吹き抜けた。男は不満を抱いているが、かつて日本にも中国にも暮らしたことがあって、どちらの言語も問題にならなかった。彼女に現在の「国語」を教えたのも彼だった。
春蘭はどれほどたくさんの国語があろうと、気にしなかった。知るべきことはすべて、時間が教えてくれる。
(略)
鶏に嫁いだら、鶏に従え。春蘭には自分の意見などなかった。どのみち、生活はどうにかやっていけた。

男が彫刻になる数日前、延平北路で闇煙草売りが検挙され、死人が出た。ご近所からその情報を聞きつけ、男はとるものもとりあえず、家を飛び出した。春蘭は息子を抱っこしながら、群衆が蹴散らす砂けむりへと消えていく男の背中を見送った。春蘭は思った。しょうがない。男は正義のために生きる。家庭のためじゃない…… 春蘭は群衆にくっついて歩いていった。さまざまな噂が通りを飛び交っていた。みな口々に、明日は集結して抗議に行くと言っている。新聞社を民衆が取り囲んでいるという話も聞こえてきた。新聞社にたいし、事件を詳しく、正しく報道しろと要求しているのだ。誰もが、祭り前にドラを叩くように高揚している。ただし顔つきはみな真剣だった。もっといい暮らしが、この戦いのあとに待っていると、みんな信じているようだった。
腕のなかの赤ん坊が大声で泣きだした。春蘭も泣きたくなった。男がいなくなったら、自分と子供はどうしたらいいのか? そればかりを考えていた。赤ん坊がおなかを空かせているのも構わず、彼女は新聞社前まで急ぎ、群衆のなかを割って入っていく。群衆はエサに群がるアリのように新聞社を取り囲んでいた。人びとが大声を上げている。「正義を! 公正を! 真実を報道せよ!」
新聞社の玄関前で、ひとりの男性がやりきれないように両手を上げ、慰めるように、あるいは音を上げたように言った。「わたしはここの編集局長、呉金錬だ。諸君、聞いてくれ。我々だってそうしたい。でも新しい“上”が許さないんだ」
「以前、君たち新聞社はとても勇敢に批判を行っていた。なのにどうして今、民衆のためにそれができないんだ!?」
「あいつらは真実をすべて覆い隠そうとしている。君たちがなお穴のなかへ逃げこみ、真実を見て見ぬふりするのなら、我々のこの憤りはどこへ持っていったらいいんだ!?」
「今、いったいどうなってるんだ!? 事件の状況を説明しろ!」
――民衆から次々に疑問が吹き出す。するとどこかからこんな声が聞こえた。「こんな新聞社、要らねぇよ。燃やしちまえ!」
「燃やせ! 燃やせ!」 あちこちから上がった言葉がうねりとなり、春蘭には、人びとが体に火をつけて、新聞社の建物へ突進していく姿が見えたような気がした。新聞社の看板はすでに誰かによって取り去られ、状況はまさに緊迫していた。そんなとき、建物のなかからひとりの中年男性が出てきた。そしてよく響く声でこう言った。「わたしが社長の李萬居である。諸君が言いたいことはわかった。憤りも受け止めた。我が社は必ず、民衆の側に立つことをお約束する。決して妄動することないようお願いしたい。もし明日の新聞を見て、なお不満があれば、またここへ来てわたし、李萬居を呼んでくれたまえ。みなさん、今日はわたしの顔を立てて、まずはお帰りくだされ。我々の戦いはまだ続くのだから」
民衆はまるで戦に勝ったように、歓声を上げて華々しく去っていった。(略)
(略)
(帰って来ない夫を探して、再び新聞社を尋ねたが、夫はいなかった。)春蘭は思った。しょうがない。家に足は生えない。男は帰ってきたいときに帰ってくる…… それに寒空の下では赤ん坊が風邪をひく。翌日もさらにその翌日も、男は帰ってこなかった。男のために作った晩ごはんは、いつも春蘭の朝ごはんになった。春蘭にできることは、ただラジオをつけること。そして新聞を買うことだけだった。新聞やラジオは、群衆の怒りを報道していた。みな、「外省人を叩きのめせ!」と言っている。この二日間、反政府行動をとる人びとによって、こと街はグラグラと沸騰しているようだった。夕方、やっと男が帰宅した。げっそり痩せた体を食卓前に置いたのをその目に見ても、春蘭はなにを話しかけていいかわからなかった。男が先には口を開いた。「早く社に戻って、日本語版を手伝わなくては」
春蘭が言葉を発する前に、男は続けた。「この何日か、事件は拡大をし続けている。抗議から始まって、ゼネストだ。一部の人は『外省人を叩きのめせ!』『ブタどもは出て行け!』と騒ぎ始めた。陳儀は戒厳令を発令し、情勢は混乱を極めている」
「どこかへ逃げましょう。カーサンがくれた持参金がまだあります。それで十分やっていける」
「逃げるって、どこへ? 日本? 中国? どこも戦争じゃないか。どこに行ったって同じだよ」
「せめてどこかで、静かに暮らしましょう。状況がどんなに悪くとも、普通の人はみな普段通りのおだやかな暮らしをしている」
「もういい。荷物をまとめたら、社に戻らないといけない。二日に一度は帰ってくる。もし戻ってこなかったら、平和をよろしく頼むぞ」

それ以上言ってもしょうがないことは春蘭にもわかっていた。食事を済ませたあと、荷物をまとめている男に、春蘭はやっと言った。「おなかに赤ちゃんがいます」
男は一瞬言葉を失い、荷物から離した手を広げ、春蘭を抱きしめた。「それはよかった」
おなかのなかの子供が、男の心を変えるきっかけになればと、春蘭は心の底から思った。男は続けて言った。「生まれたら、この子に『起義』と名付けてくれ。正義を追求することは、この社会で一番大事なことだ」
男は自分が帰ってこられるかわからない。だから、先に名前をつけたのだ。春蘭はわかっていた。この名前は、男が子供に与えた最初のプレゼントだった。そして、もしかすると最後の……
(略)

 

 

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訳者プロフィール

天野健太郎(あまの けんたろう)
1971
年、愛知県生まれ三河人。京都府立大学文学部国中文専攻卒業。2000年より国立台湾師範大学国語中心、国立北京語言大学人文学院へ留学。帰国後は中国語翻訳、会議通訳者。聞文堂LLC代表(ツイッターアカウント「 @taiwan_about 」)。台湾書籍を日本語で紹介するサイト「もっと台湾(http://www.motto-taiwan.com )」主宰。訳書に『台湾海峡一九四九』龍應台著(白水社)、『交換日記』張妙如、徐玫怡著(東洋出版)、『猫楽園』 猫夫人著(イースト・プレス)。『日本統治時代の台湾』陳柔縉著(PHP研究所)。俳人。