原題:「戰爭結束 困惑沒有結束──重讀吳濁流的『亞細亞的孤兒』」

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訳=天野健太郎

腑に落ちる
 このことを出発点にして、わたしは、“腑に落ちる”ということを二度経験することになる。
 まずひとつ目は、呉濁流が描いた台湾は決して想像上の異国ではなく、わたしと密接な関わりがあって、ただそのつながりが見えていなかっただけと気づいたことだった。そこにある台湾は、悲しみと不安を纏って、いくつもの虚偽なる身分にけっして、ぴったりくっつくことのない台湾であり、同時にわたしが生まれ、成長してきた台湾であった。何年かのち兵役で高雄にいるとき、凰山の本屋でまたも“幻の” 呉濁流作品を見つけた――『台湾連翹(れんぎょう)』である。『アジアの孤児』の物語は、胡太明の発狂で終わるが、それはさきの大戦がもっとも激しい時期のことである。一方『ポツダム科長』は戦後、国民党による台湾接収時代を描き、『台湾連翹』は二・二八事件の際に呉自身が見聞きしたこと、考えたことを忠実に記録している。つまりこの三つの作品は歴史の順序にそって、一本につながっていたのだ。

 「台湾連翹」とは、よく垣根に使われる多年生木本植物で、繁殖力は非常に強いのだが、一旦垣根にされてしまえば永遠に、その形のまま剪定されつづけるしかない運命だ。呉濁流はこの植物をメタファーとして、台湾人の100年近く続く境遇を描いたのだ。『台湾連翹』のシークエンスのいくつかは、わたしの心、そして語彙に留まり続け、かつ何度も反復して現れた。たとえば『台湾連翹』にある場面――「三月は晩冬初春の季節、事件で殺戮に遭った者の死体が水中に捨てられた。血と水は混ざり合い、明け方、「血氷」となり水面に浮かんできた。」――このイメージ。なんという鮮烈、なんという戦慄。わたしが小説『暗魂』を書いたときも、そのイメージを借用した――「二十六歳の顔金樹は夜、眠りつけず、幼い頃よく遊んだ水路端を歩いた。水路には赤黒い血氷が漂っていた。」 何年かして、小説『一九一九』のなかでもこう書いた――「人の血が凍りつく……奇妙にも、そのへりには完全な弧線が形作られ、まるで鋭い刃で割かれたかのようだった。一番上の層は色が薄く、その薄紅色に灰色の空が映り、表面は鮮血が途切れて不規則に文様を描く。底に近づけば近づくほど濃い赤になり、また粘り気が強くなる。漂いながら断続的に震えるさまは、まるで罠にかかった動物が血まみれのまま、か細くもがいているように見えた。」

「あたりまえ」と「よそよそしさ」の転位
 また『台湾連翹』のなかで触れられている、当時「半山〔バンシャン〕」と呼ばれた、戦前大陸に逃れ、戦後帰ってきた台湾の人びとが二・二八事件のなかで果たした役割と「清郷運動(反国民党人物の検挙活動)」の逮捕者名簿の出所に関する推察は、わたしの祖父・許錫謙〔きょせきけん〕が罪に問われたいきさつを理解するうえで、大きな助けとなった。

 「あたりまえ」に見えたものと「よそよそしく」見えたものが、そのときから入れ替わり始めたのだ。少なくとも、それまでほど明瞭な区別はなくなっていた。
 もうひとつ腑に落ちることがあった。関連する日本語史料を漁っていくうちに、戦前台湾へやってきた大量の九州人は「在台日本人」の根幹であったことを知った。九州は日本でも南に位置するため自ずと台湾に近い存在であったが、本当の理由は別にあった。「田舎者」と関東や関西で差別を受け、鬱屈していた九州人が台湾にやってきて、この地の本島人に相対した途端、立派な「日本人」になれたのだ。この地位の上がり幅は相当なもので、これが強力な誘い水になり、九州人に海を渡らせ、台湾で殖産振興の偉業に「貢献」することとなった。言い換えれば、ここにあるのは台湾と日本、つまり植民者と被植民者という単純な二項対立ではなかったのだ。

 気づいている人は少ないが、近年、黄玉燕〔こうぎょくえん〕女史によって中国語に翻訳しなおされた『アジアの孤児』は、旧訳版での誤訳や意味が通じにくい部分が多く改められている(新竹県出版センター刊行)。 再読とも初読ともいえる新訳版だが、呉濁流の筆による、台湾人アイデンティティのあまりの不穏さに、わたしは驚いた。作中、“孤児”である台湾人は、どのアイデンティティにも安息することができない。まるでそれは、その後の半世紀、台湾人が自分を何かしらの身分につなごうと費やしてきた数々の徒労を予期していたかのようだった。再読して初めて気づいたのだが、呉さんは台湾アイデンティティの新しい可能性を幾度も暗示し、また同時に留保し続けていた。そして、当時まだ存在もせぬアイデンティティの確立にたいし、彼は悲観的であった。

 胡太明は発狂するしかなかった。なぜなら彼は自らのすべてを賭して、アイデンティティを探しつづけたのに、答えはついに見つからなかったから……。胡太明は発狂するしかなかった。なぜなら、歴史上に彼が置かれていた時間から未来を見ても、台湾人を解き放つ道を見出すことはできなかったから……。

文学とは憂鬱な学問だ
 呉濁流はどうやら、時局の変化にいかなる幻想をも見出さなかったようだ。だからこそ、彼はその後半生を文学に捧げたのだろう。ある意味において、文学とは憂鬱なる学問であり、世に安住することができぬ人にとって僅かに残された、漂泊という救済である。

 戦争が終結し、日本の統治も終わり、台湾人にもたらされたのは本当の解放ではなく、より多くの、より複雑な、より混乱したアイデンティティであった。台湾人が過去、本当の意味で“選択”したことなど一度もない。ただ、世の辛酸を耐え抜いてきた体を引きずり、数多ある不純な自我の烙印を押され、新しく出来た柵へと割り振られてきたに過ぎない。台湾人は長期にわたり“不純さ”を背負わされ続けてきた。不純なる中国人、不純なる日本人、そしてまた、より不純で、もはや純粋たりえない中国人。ここにあるもっとも悲哀な事実は、自分が“純粋”かどうか不安がる者は、みな台湾人を引き合いして、安心できる身分を得るということだ。九州人は日本では“純粋”たりえなかったが、台湾でなら、台湾人を踏み台にして、日本人という安定した身分を得られた。戦後台湾に来た外省人で“純正”の中国語を喋る者などほとんどなかったが、彼らの多彩なお国訛りも、台湾人の訛りと相対してみれば、そのまま“正統”になった。

 このような“不純粋さ”は、台湾に“孤児たる運命”を与え、また今日の、台湾を唯一の価値観とする本土主義者に、すこぶる熱狂的に“純粋さ”を追い求めさせる。“不純粋さ”の悲哀は今、“純粋さ”への熱烈なる追求という、もうひとつの悲哀へと成り代わった。

 戦争が終わって60年になる(訳注:2005年掲載)。しかし台湾人が、そのアイデンティティとのあいだに繰り広げてきた奮闘は100年を超えて、なお続いている。この節目のときにあらためて呉濁流〔ごだくりゅう〕1の小説『アジアの孤児』を読み直すことで、わたしたちは、台湾の歴史における継承と断絶について、新たな視野を得ることができるのではないだろうか? 戦争とは、外から見れば大きな歴史の段階的変化であるが、その奥底に台湾で世代を超えて続くアイデンティティの不確かさという、断ち切ることのできない連続性を見出せるのではないだろうか。

※2005年8月13日『中国時報』掲載(太平洋戦争終結60年に寄せて)(単行本には収録されていない。)
 

 

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  1. 呉濁流(1900-1976)小説家。新竹生まれ(客家人)。1920年台北師範学校卒業後、公学校の教員を務め、41年より南京『大陸新報』、44年より台湾『台湾日日新報』で記者。36年短編小説「水月」を発表。46年に刊行された、日本統治時代の矛盾を批判する長編小説『アジアの孤児(当初の書名は「胡大明」)』(中国語翻訳版は62年刊行)を皮切りに、48年刊行の外省人官僚の横暴を描いた短編『ポツダム科長』、70年に刊行され即発禁となった、二・二八事件を描く長編『無花果』(88年再刊)、死後の87年、鍾肇政の訳で中国語版が刊行された、白色テロを描く長編『台湾連翹』など、最後まで日本語で小説作品を書いた。64年、私費で雑誌『台湾文芸』を創刊、その死まで後進作家を育てた。また漢詩集も多く発表している。
    http://literature.ihakka.net/hakka/author/wu_zhuo_liu/author_main.htm
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