七等生著者紹介:
七等生〔しちとうせい/チードンシェン〕
 1939年、苗栗・通霄〔つうしょう〕生まれ、本名は「劉武雄」。台北師範学校卒業後、『聯合報』文芸欄編集長・林海音に見出され、62年「失業・撲克・炸魷魚(失業・トランプ・イカ揚げ)」でデビュー。その後も教員などを勤めながら、『僵局(膠着)』『精神病患』『來到小鎮的亞茲別(アスベルが来た)』『思慕微微(淡き思い)』など20冊以上の著作を刊行し、90年代末まで旺盛に小説を発表するなど、台湾では数少ない「多作」な作家である。『沙河悲歌』は映画化もされた(2000年、張志勇監督)。85年第8回呉三連文学賞、2010年第25回国家文芸賞など受賞多数。
 “私小説”の極北を歩き続けた男、七等生は、内面に忠実な言語を緻密に、しつこく重ねた独特の文体で、自由を求める孤独な魂を描いた。67年の短編小説「わたしが愛する黒い瞳」(訳を読む)は、自己同一性さえも否定する思考と自分だけの道徳を貫く行動が、非倫理的として当時の文壇で大きな議論を呼んだ。現在の我々が読めば、最高の“変愛”小説である。blackeye
 

全集(全10巻)は2003年に遠景出版より刊行(品切)
http://www.vistaread.com/category.php?categoryid=12
選集『為何堅持: 七等生精選集What for Insist on?』が2012年に遠景出版より刊行
http://www.vistaread.com/book.php?id=1438
 

 

部分訳:
「私が愛する黒い瞳」

 リー・ロンディ(李龍第)は伯母になにも告げず、緑色した女物のレインコートを腕にひっかけ、家を出た。黒い傘を差して軍人村を静かに歩いて行く。大通りのバス停で、市内へ向かうバスを待った。一日が終わる黄昏どきだったが、冬の雨が降りしきり、あざやかに輝く夕日は拝めず、気づけば、周囲が暗くなっていくのをただ感じていた。彼は、年の頃なら三十過ぎ。どんな職業に就いているか、傍目からはまったく見当がつかない男であった。だが、そのいつも考えごとをしている顔つきに、人びとは彼がけっして楽観的な人間ではないと感じていた。軍人村の住民たちが目にするとき、彼はきまって散歩をしていた。人はみな、街へ仕事に出かけるのに、どうして彼はひとり、ここでぶらぶらしているのか? 彼はこれまで、道で行き合った誰かと挨拶をすることなどなかった。ときに、彼のかたわらにはきれいな女性がいたが、彼らが夫婦なのか兄妹なのか誰も知らなかった。唯一確かなのは、彼がこの軍人村で、5年前夫に先立たれた邱〔きゅう〕という女性といっしょに住んでいるということだけだった。バスが白く光る鋼鉄の束をなぎ払う怪獣のように近づいて来て、タイヤの音が鋭く響いた。バスのなかで、人びとは止まない雨を嘆いていた。リー・ロンディは黙って肩をすくめ、ただ窓の外に視線を投げかけていた。雨水がザーザーと窓ガラスを打ち、それは窓に貼りついて沈思する彼の顔に叩きつけるようだった。リー・ロンディはハルコ(晴子)の黒い瞳を思った。すると心の底から、かきむしられるような哀しみが湧き上がってくるのだった。ぼやけたガラス越しに外を眺める彼には、土産物店のショーウインドウの内側に立つハルコの姿が見えたような気がした。彼女は壁にかかった時計の針を何度も見上げる。家に帰って晩ご飯を食べている店長が早く戻ってきて、時間どおり交代して、彼女を帰してくれることを彼女は切に願っていた。リー・ロンディは陰々と彼女のことを思った。彼女がふたりの共同生活を維持するため、勇敢にその責任を担っていることを思った。バスは巨大な敵軍をなぎ倒す勢いで直進していくが、彼の心は、待ち合わせのあと彼女に楽しみをもたらすことができるか否かの疑問のなかにあった。

 彼は市内でバスを乗り換えた。そしてやっと、映画館が山のように連なる繁華街に辿り着いた。リー・ロンディは劇場前の軒下で人混みから離れ、ハルコがやってくるであろう方向を見つめていた。ポケットにはすでに用意された2枚のチケットがあった。揺れながら押し寄せてくる傘の一群から、金の柄で、赤いジャスミンが描かれたナイロン傘を見つけ出さなければならない。ふいに、彼はあることを思い出した。傘を差すと、通りの向かい側にある商店へと走った。軒下を歩いていけばパン屋があり、彼はショーウインドウの外から、種類ごとトレイに載せられたパンを眺めていった。彼はやっとパン屋に入って、レーズン入りのパンを2つ注文した。そして、左手にずっと掛けていた緑色のレインコートのポケットに、袋に入れたパンを押し込んだ。そしてまた傘を差して、のしかかるような雨のなか劇場へ駆け戻り、やはり人混みの一番外側に立った。都会の夜に現れる幻想的な情景が早くも、彼の目に映り始めた。(略)

(ハルコと会えないまま、リー・ロンディは雨の繁華街をさまよった。そして雨は洪水となって、この都会を覆い尽くしていく。)

 (略)リー・ロンディはこのとき、人びとが他人を踏みつけにし、梯子を伝って我先にと屋根へ登っていく身勝手で粗暴な姿を見た。彼は太い石柱にもたれてため息をつき、涙を流しながら、憤怒にまかせて考えた――この、生きるためになんでもする人間たちの醜さ。いっそぼくはここで柱を抱いたまま水に呑まれ、柱とともに死んでしまいたい……。傘はもう、空から降り注ぐ雨に耐え切れず、彼の手からこぼれ落ち、流されていった。冷えきった雨水に顔も体も濡れ、少しずつ目覚めと落ち着きが下りてきた。彼は内心、感傷的に思った ――この自然界で、人の死などもっとも取るに足りないことだ。人の悲しみなど、この冷酷な自然界にわずかな爪あとも残さない。自然がもたらした、抵抗も虚しいほどの破壊を眼前にして、人類が堅く信じ、守り続けてきた価値観はなお永遠たりえるのか?(略)水流はもう、リー・ロンディの腰の高さに達していた。彼はやはり、レインコートを掛けた両手を高く掲げたまま、なお冷静に見えた。この巨大な災害によって、人工の都市は急速にその輝きを失っていた。
(略)
 腕のなかの女が、居心地悪そうに体をいざらせた。彼女の視線は彼を通過して、明るくなった空へと向けられた。彼女がかすれた声で言った。
「あ、雨が止んだ――」
 リー・ロンディは尋ねた。
「気分はどう?」
「抱きしめられてて、恥ずかしい」
 彼女はひとりで座ろうともがいたが、めまいがして、うまく座ることができない。リー・ロンディは、彼女にもたれさせ、両膝でその体を支えた。
「家に帰りたい――」
 彼女は涙を流して、そう言った。
「この災害が終われば、ぼくらは家に帰ることができる。でも今は、ここから逃れることはできない」
「家に帰りたい。どうしても」彼女はかたくなに、その願いを口にした。「水は引いたのかしら?」
「少しずつ引いていくだろう」彼は慰めるように言った。「でも、どんどん水が増えて、ここも水没するかもしれない」
(略)
 リー・ロンディはやさしく、腕のなかの女に言った。
「パンはしめってるけど、レインコートでろ過されてるから汚くないよ」
(略)

※本作品は『pen+ 台湾カルチャークルーズ』に全訳文が掲載されています。
http://www.pen-online.jp/magazine/penplus/pen_plus_taiwanculture/